バイブル・エッセイ(191)「わたしを何者だというのか」


「わたしを何者だというのか」
 エスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:13-18)
 もしイエスがわたしたちの目の前に現れ「あなたはわたしを何者だというのか」と尋ねたとしたら、わたしたちは一体何と答えるでしょうか。答えに窮して、「三位一体の第二の位格であって、受肉した神の御言葉ロゴスです」などと本で暗記したままに答えれば、「それは本の著者の言っていることではないのか。あなたはわたしを何者だというのか」とさらに問い詰められてしまうかもしれません。
 ペトロは、何の迷いもなく直ちに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。この言葉が、ペトロにとって実感そのものだったからでしょう。罪に沈み、迷いの多い青春を送っていた自分を助け出してくださった救い主、メシア。自分たちと同じように生きておられるが、しかし人間を越えた世界の存在をいつも感じさせる「神の子」、それこそがペトロにとってのイエスに他ならなかったのです。
 テモテへの手紙の中で、パウロも同じような信仰を告白しています。「主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました」(二テモテ4:17)とパウロは言います。どんなときでも、獅子の口に落ちたかのような絶体絶命の苦しみの中にあっても、イエスはわたしと共にいて、わたしを必ず救い出してくださる方だという確信が感じられる言葉です。パウロにとってイエスは救い主、メシアに他ならなかったのです。さらにパウロは「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます」と続けます。イエスは、わたしたちと共にいて下さる方であると同時に、天国とこの世界を結ぶ方「神の子」に他ならないという固い信仰がこの言葉から感じられます。
 わたしたちは、ペトロやパウロと同じように答えられるでしょうか。エスと共に過ごした自分自身の体験に照らして、イエスは必ずわたしたちを苦しみの中から救い出してくださる方だ。イエスこそわたしたちの救い主、メシアなのだ、と確信を持って答えられるようになりたいものです。イエスは共に生きている人間でありながら、人間を越えた世界へとわたしを吸い込んでいく。イエスはこの世界と天国を結ぶ「神の子」なのだ、と何の迷いもなく答えられるようになりたいものです。そのために必要な恵みを、聖ペトロと聖パウロの取り成しによって願いましょう。
※写真の解説…宇治、三室戸寺にて。