バイブル・エッセイ(135)愛の大河


 ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:31-35)
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とイエスは言います。イエスはわたしたちをどのように愛しているのでしょう。どうしたらイエスのように互いを愛することができるのでしょう。イエスの愛について考えてみたいと思います。
 今ゴールデンウィークですが、わたしは先日、日本聖公会の西四国伝道区に招かれて高知に行ってきました。高知市での講演の翌日は、1日休みをとって四万十市まで足を伸ばしました。「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川を体験するためです。自転車を借りて1日川沿いのサイクリングロードを走り回りましたが、四万十川はあらゆる意味で想像以上の川でした。山々から流れ出た澄んだ透明な水が一時に何万トンもの量で川を流れ下っていく力強さ、岸辺の新緑と川の青のコントラストの美しさ、川面を渡る初夏の風のさわやかさ、すべてにただ感動するばかりでした。
 夕方、出発した赤鉄橋まで戻って来て、河原でしばらく休憩しました。圧倒的な大河の流れを目の前にしてふと思ったのは、「この恵みの大河の中にはたくさんの魚が暮らしているだろうけれど、水があまりにも透明なので魚たちはそのことに気づかないかもしれないな」ということでした。すさまじい水量で流れ下るこの水のお陰で生きているにもかかわらず、魚たちはそのことに気づかないのです。
 もしかすると、わたしたちもこの魚と同じことかもしれません。わたしたちは神の恵みの大河に生きる魚のようなものですが、恵みが目に見えないために気づかないのです。
 四万十川の流れは「不入山(いらずやま)」という山から流れ出ていると聞きましたが、わたしたちが生きる恵みの川の源はイエス・キリストに間違いありません。イエスという水路を通して、天国を満たした愛の水、命の水がこの世界にあふれ出しているのです。イエスの愛とは、自らが水路になることで神の愛を人々に惜しみなく与える、そのような愛ではないかと思います。たとえわたしたちが気づくことがなくても、イエスはすべての人に命の水を与え、すべての人を生かし続けるのです。
 エスは自分をまったく空にすることによって、自分の思いをすべて神に差し出し神と一つになることによって、神の愛の完全な水路になりました。イエスのような大河になれないにしても、わたしたち1人ひとりもそれぞれに命の水を与えあう愛の水路になっていきたいものです。それこそ、イエスのように互いを愛し合うということでしょう。
※写真の解説…四万十川の流れ。