バイブル・エッセイ(861)愛された記憶

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愛された記憶

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(一コリ11:23-26)

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とイエスは弟子たちに言い残しました。神の愛がいっぱいに詰まったキリストの体を、感謝して共に味わうとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。これからの日々を、頑張って生きてゆこうという気持ちになるのです。わたしたちが、どんな試練にあっても挫けることなく福音を宣教してゆくための力として、イエスはこの記念を残してくださったのでしょう。
 思い出すたびごとに力を与えられる記憶。そんな記憶が誰にでもあるのではないでしょうか。わたしは、何か本当に辛いこと、絶望的なことがあったときに、ふと祖母や曾祖母のことを思い出します。わたしは「おばあちゃん子」だったので、子どもの頃はいつもおばあちゃんにくっついていました。祖母のそばで過ごした日々のこと、祖母のぬくもりを思い出すと、どんなに辛いときでも、「きっと何とかなる。もう一度頑張ってみよう」という気持ちになります。まだ何もできなかった子ども時代に、あるがままの自分を受け入れてもらった体験。それこそ、無条件の愛の体験だと言っていいでしょう。
 曾祖母はわたしが生まれて1年くらいで亡くなったので、まったく覚えていませんが、祖母からいつも「ひいおばあちゃんは、お前が生まれたばかりの頃、いつも添い寝してお前をうちわであおいだりしていたんだよ。あの世から、守ってくれるに違いない」と言われて育ったので、祖母のことと同じようによく覚えていて、その言葉もわたしにとっては、いざという時の特効薬のような言葉になっています。まったく無力な赤ん坊のとき、あるがままで受け入れられた体験。これこそ、無条件の愛の究極と言っていいでしょう。
 このように、誰かから無条件で愛された記憶、「お前が生まれてきてくれただけでうれしい。生きていてくれるだけでありがたい」というような愛を受けた記憶は、わたしたちに生きるための力を与えてくれるように思います。そのような記憶を思い出し、涙を流して味わうとき、わたしたちは「このくらいで負けてたまるか。頑張るぞ」と思える力を与えられるのです。
 イエスから愛された記憶、御聖体の記憶も、まさにそのようなものでしょう。わたしたちは直にイエスと会い、十字架を目撃したわけではありません。ですが、誰しも、神の前で赤子のような無力な自分をさらけ出し、あるがままに受け入れられた体験を持っていると思います。わたしたちは誰も、イエスの無条件の愛と出会ったことで生まれ変わり、この道に招かれたのです。キリストの体である御聖体は、わたしたちが出会ったイエスの愛の記念、救いの恵みの記念だと言っていいでしょう。感謝して味わい、生きてゆくための力をしっかり受け取りたいと思います。