バイブル・エッセイ(138)主の昇天


 エスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:45-53)

 復活節に読まれる福音は、どれもイエスの復活とは何かをわたしたちに教えてくれます。出現の物語はイエスが今も生きていおられることを、エマオの物語はイエスがいつもわたしたちと共に歩んでおられることを教えてくれますが、この昇天の物語は一体何をわたしたちに教えているのでしょう。
 福音書の記述にもばらつきがあり、実際にご昇天とよばれる出来事でイエスに何が起こったのかはよく分かりません。しかしはっきりしているのは、弟子たちがこの出来事を通して、復活したイエスは神と同じ高さにまで挙げられたと確信したということです。それまで復活したイエスが一体何であるのか確信を持てなかった弟子たちは、イエスが栄光に満ちて天に挙げられるのを見たとき、復活したイエスがもはや人間を越えた方、神と同じ高みに立たれる方だと確信することができたのです。
 自分たちと共に住み、自分たちを友として選んでくださった方が神であることを知った弟子たちは大きな喜びに満たされました。これまで部屋に隠れて迫害を恐れていた彼らが、神殿の境内で神をほめたたえ始めたという事実が、彼らの喜びの大きさを表しています。イエスが神である以上もはや何も恐れることはないと確信した彼らは、喜びのあまり外に飛び出してイエスの福音を証し始めたのです。
 こうしてイエスを信じ、神に全てを委ねた彼らのもとにやがて聖霊が降臨します。エスは神だと確信し、すべてを神に委ねることが聖霊降臨のために不可欠だったのでしょう。わたしたちも、この昇天の出来事を目の当たりにし、イエスは神であるという確信のうちに聖霊の降臨を待ちたいものです。
※写真の解説…満開のカラシ菜畑とツツジの花。JR亀岡駅前にて。