バイブル・エッセイ(140)三位一体を生きる


 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:12-15)
 今年も三位一体の記念日が祝われました。父と子と聖霊の三位が一つであるとするこの教えを、わたしたちは一体どう受け止めたらいいのでしょうか。
 教会の伝統の中で、三つのものが一つであることについて色々な説明がされてきました。例えば、源流と中流下流で流れの様子は違ってもどれも一つの川であるとか、父なる神は太陽で、イエスは光、聖霊は熱であるとか、聞けば「まあそんなものかな」と思える説明ですがどうもピンと来ない気もします。
 神学生時代にはあまりピンとこなかったこの三位一体ですが、近頃わたしは生活の中でとても大切なものとして体験しています。それは、苦しみに直面した時です。十字架上で苦しみを父なる神に捧げたイエスを信じて自分の苦しみを父なる神にお捧げする時、聖霊が不思議な力と喜びとして心の底から湧きあがってくるのです。父、子、聖霊と三位が登場しますが、この体験は一つの救いの体験です。
 例えば先日、60代の女性が不慮の事故で亡くなり、わたしが葬儀ミサをすることになりました。喪主の息子さんはちょうどわたしと同じくらいの年齢でした。わたしはこの息子さんの苦しみが自分の苦しみのように感じられ、苦しくて説教で何を話したらいいか分からなくなってしまいました。そのときわたしは心の中で、イエスへの信頼のうちにこの苦しみを父なる神に捧げることにしました。すると、不思議なことですが悲しみは消えさり、心の底から言葉が湧いてきたのです。
 エスを信じ、父なる神に苦しみを捧げることで、聖霊の力と喜びに満たされるという体験、これこそが三位一体なのではないかとわたしは思います。父と子と聖霊によって、わたしたちはただ一つの神の救いに与るのです。頭で理解するのではなく、日々の生活の中でその教えを生きることによって三位一体の神秘をこの世界に証していきたいものです。
※写真の解説…満開のサツキ。阪急六甲駅の近くにて。