やぎぃの日記(85)司祭年閉年ミサⅠ


 昨日、カトリック玉造教会で大阪教会管区の司祭年閉年行事とミサが行われた。大阪教会管区には広島教区、高松教区、大阪教区、京都教区、名古屋教区の5教区が属している。その行事とあって、西は下関から東は名古屋まで、各地から百数十名の司祭たちが玉造に集結した。
 集いは会食から始まり、パネルディスカッションへと移っていった。溝部司教の司会によるパネルディスカッションでは、年齢も教区も違う5人の司祭たちが自分自身の司祭としての歩みについて話してくれた。自分を「旧式の神父」と呼んで自転車で家庭訪問に精を出す老司祭の話し、福音宣教のあり方を模索する若手司祭の話し、与えられた使命のままに歩み続ける中堅司祭の話し等どれも印象深かったが、特に名古屋から来た神父さんの「奉仕するとは24時間ミサを初めとする秘跡的奉仕のために待機しているということだ」という言葉が特に胸に残った。司祭の本分が秘跡的奉仕であるならば、司祭はそのくらいの覚悟で生活の全体を秘跡的奉仕に向けて整えるべきだろう。
 ディスカッションの後半では、日本のカトリック教会の将来をどう考えるかというテーマでフロアーにも発言が求められた。年配の司祭たちからの発言が続く中で、わたしの前に座っていた韓国人の若い神父さんが手を挙げた。韓国の500人集まる教会から広島の50人しか集まらない教会に来て働き始めた当初、彼はなんとか1人でも信者を増やそうと思って懸命に努力し、1年かけて1人の人を洗礼まで導いた。ところが、洗礼の直前に家族の反対が起こってその話は流れてしまった。ショックを受けた彼はもう韓国に帰ろうと思って荒んだ気持ちで聖務をするようになった。
 そんな彼の様子を見ていた信者さんがあるとき彼に「わたしたちの神父さんに対する愛は、どんなにたくさんの人たちの愛にも負けません」と言った。その言葉を聞いたとき、彼は自分の間違いに気付き、数を求めるのではなく1人ひとりの信者さんたちの愛にこたえられる司祭になることを決意したという。数を求めがちのわたしにとって、とても考えさせられる話だった。
※写真の解説…カトリック玉造教会正面のマリア像。