マザー・テレサの言葉を読む(27)受け取るからこそ


沈黙の祈りの中で受け取れば受け取るほど、
活動の中でより多くのものを与えることができます。

 沈黙の祈りの中で受け取れば受け取るほど、活動の中でより多くのものを与えることができるというのは、体験上明らかなことに思えます。むしろ、沈黙の祈りの中で受け取らないならば、活動の中で何ひとつ与えることができないとさえ言えるでしょう。なぜならば、わたしたちが福音宣教の活動において与えるべきものは、神の愛に他ならないからです。神からいただかない限り、わたしたちは神の愛を決して人々に与えることができません。
 ミサで説教するとき、わたしはこのことを痛切に感じます。どれほど口先でうまく話したとしても、心の底から湧きあがる神の愛がそれに加えられていないならば、それは説教ではなく単なるおしゃべりです。逆に、口下手に訥々と話したとしても、その中に神の愛が混じっているならば立派な説教だと思います。神から受けた満ち溢れる愛の力、心の底から湧きあがる愛の力で話すことができるかどうか、それが説教の質を決定するのではないでしょうか。
 このことは、説教だけでなくすべての福音宣教の活動にも当てはまるでしょう。あらゆる活動において、わたしたちが与えるべきものは神の愛に他ならないからです。貧しい人への奉仕、悩んでいる人の相談、冠婚葬祭、あらゆる場面において、神の愛を十分に受け取り、神の愛で心が満たされているかどうかが問われます。
 神の愛は同時に、わたしたちの活力の源でもあります。教会をガソリンスタンドに例えた神父さんがいます。わたしたちは教会で神の愛をたっぷり「給油」するからこそ、次の1週間、福音宣教のために走り続けることができるというのです。その通りだと思います。祈りの中で神から愛をいただくからこそ、わたしたちは動くことができるのです。「わたしは神から無条件に受け入れられ、愛されている」という確信こそが、わたしたちの心を動かすエネルギー源だと言ってもいいでしょう。
 沈黙の祈りの中で神の愛を受け取るからこそ、わたしたちはその愛を人々に分け与えることができますし、受け取った愛を自分自身のエネルギー源として活動し続けることができるのです。「沈黙の祈りの中で受け取ること」、それをどんなときでもわたしたちの生活の出発点にしたいものです。