バイブル・エッセイ(165)塩気を失わないために


塩気を失わないために
「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:49-50)
 いつも心に塩気を持ち続けなさいと、イエスは弟子たちに語りかけます。塩気とは、きっと聖霊の炎に焼かれることで生まれる聖性のことでしょう。塩が塩気を失えば何の役にも立たないのと同じで、聖職者も聖性を失えば何の役にも立ちません。
 第三修練の中でこれまでの司祭としての歩みを振り返る中で、わたしはこのことを改めて痛感しています。叙階されたばかりのころは、11年にも及ぶ養成期間に蓄えられた塩味がきっとたっぷりあったでしょう。ですが教会で働き、祈りの時間も犠牲にしてたくさんの活動をする中でしだいに塩味は薄れ、ちょうど塩味が尽きかけたところで第三修練に派遣されたような気がします。
 聖職者として働く上で一番大切なのは、たくさんの活動をすることではなく、どれだけ聖性の塩味で人々を味付けできるかということでしょう。どれだけ立派な活動をしたとしても、もし聖性がないならそれは全く味気のない見かけだけの活動にすぎません。そのことを改めて肝に銘じながら日本に帰りたいと思っています。
 では、聖性はどうしたら生まれるのでしょうか。「人は皆、火で塩味をつけられる」とイエスが言っているように、それは、わたしたちの心の奥底に燃え上がる聖霊の炎に焼かれることによってだと思います。深い祈りの中で聖霊の炎に身を投じ、心の中にある執着や欲望をすべて焼き尽くすことから聖性が生まれるのです。悪意のにがみや怠惰の甘さなど、余分な味をすべて焼き尽くした時に、わたしたちは聖性の塩味によって満たされるのです。
 このことは、聖職者だけに限りません。キリストの後に従うすべてのキリスト教徒は聖性へと招かれています。日々の生活の中での祈りを大切にし、いつも塩気に満ちた塩でありつづけたいものです。
※写真の解説…子どもたちに要理を教える「神の愛の宣教者会」のシスター。