バイブル・エッセイ(169)苦しみの中で学ぶ従順


苦しみの中で学ぶ従順
 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。(ヘブライ5:7-10)
 キリストは、人間として味わった多くの苦しみを通して従順を学んだと言われています。苦しみの中で学ぶ従順とは一体どんなことなのでしょうか。少し考えてみたいと思います。
 わたしたち修道者は修道誓願と呼ばれる三つの誓いを立てていますが、その中の一つが従順です。イエズス会では、養成中の会員たちこの従順を学ばせるために、とても巧妙な手段が取られています。それは「こんなこと、自分の力では絶対に無理だ」と思えるほどの大きな試練を、次々に課していくという方法です。
 例えば、わたしは最初の修練のときミンダナオ島の山奥の村へ宣教に送られました。一番近い村から歩いて2日というその村に行く途中、断崖絶壁をよじ登りながらわたしは「神様、もうだめです。なんとかお助け下さい」と心の中で叫ばずにいられませんでした。その後、東京に戻って哲学を勉強していた時にも同じようなことがありました。カントの本を読んでレポートを書くように言われたときのことですが、日本語で書いてある数ページの文章の意味が10回読んでも、20回読んでもまったくわからないのです。わたしは涙を流しながら「神様、助けてください」と心の底から祈らずにいられませんでした。中間期で学校に送られたときもそうでした。なかなか言うことを聞いてくれない生徒たちを前にして、わたしは「神様、わたしには何もできません。力をお貸しください」とただ祈るばかりでした。このようにしてわたしたちは、自分の力ではもうどうにもならないと思えるような苦しみの中で、神に全てを委ねる従順を学んでいくのです。
 イエスもそのようにして従順を学んでいかれました。弟子たちの裏切り、人々からの侮辱、母との別離など一つ一つの苦しみを通してイエスは自分の無力さを味わい、すべてを神に委ねる従順を学んでいったのです。最後に、「成し遂げられた」と言って息を引き取られますが、それは「もはや全てを神に委ねました。わたしにはもう何も残っていません」という意味ではないかと思われます。
 今、わたしたちは自分たちの力ではどうにもならないほど大きな苦しみに直面しています。東北で今起こっている出来事を前にして、わたしたちはもはや「神様、どうかお助け下さい」と祈る以外にないでしょう。被災を免れたわたしたち一人一人も、それぞれが置かれた状況の中で自分の力ではどうにもならないような苦しみを抱えているかもしれません。その苦しみの中で自分の無力さを痛いほど味わい、イエスに倣って心の底から「神様、どうぞお助け下さい」と叫ぶとき、わたしたちは神への本当の従順を学ぶことができるのではないでしょうか。
※写真の解説…六甲山の新緑。