バイブル・エッセイ(860)希望を生み出す力

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希望を生み出す力

 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:1-5)

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とパウロは言います。苦しみに耐える中で信仰が磨かれ、磨かれた信仰はわたしたちの心に希望を生むということでしょう。苦しみの中でわたしたちの心に宿るこの希望を、聖霊と呼んでもいいかもしれません。苦しみの中にあっても決して諦めず、祈り続けるとき、わたしたちの心に聖霊が宿るのです。
 これは、わたし自身、日々実感していることです。このところ、研修会や講演会の講師を頼まれることが多いのですが、その一つひとつが、わたしにとっては試練であり、多かれ少なかれ苦しみを伴います。先日も、福島県の大学の公開講座で、一般の方向けにお話をする機会がありました。いつもとは違う対象で、しかも高齢の方が多いということで、一体どんな話をしたらいいのか、「これは大変な仕事を引き受けてしまった」とずいぶん苦しみました。よくあることですが、そんなとき、わたしはあるところで諦めるようにしています。「もうわたしには無理です、神さま助けてください」と神様に下駄を預けてしまうのです。すると、不思議なことに、心の中に不思議な力が湧き上がってきます。今回も、その力に動かされてもう一度原稿を見直すと、よくないところ、余分なところが見えてきて、最後にはなんとかまとまった原稿が出来上がりました。結果として、皆さんにとても喜んでいただくことができたのです。
 これは、本などの原稿を書くときもまったく同じです。最初は、「何とかして気の利いた文章を書こう」「どうしたら売れるだろう」などと考えるのですが、途中で「そんなの絶対に無理だ」と気づきます。そして、神さまの手にすべてを委ねてしまうのです。すると、思いがけない気づきやアイディアが与えられ、何とか文章を書きあげることができます。苦しみの中で自分の無力さに打ちのめされ、すべてを神の手に委ねるとき、わたしたちの心に聖霊が宿ると言っていいでしょう。聖霊とは、希望を生み出す力であり、わたしたちを決して裏切ることのない希望そのものなのです。
 弟子たちの心に聖霊が宿ったプロセスも、きっと同じだろうと思います。イエスと一緒にいたとき、まだ弟子たちはイエスの言っていることの意味が分かりませんでした。まだ、自分たち自身の力を信じ、自分たちの思い通りにことを進めようという気持ちがあったからです。ですが、十字架の苦しみの中で自分たちの無力さを知り、神の手にすべてを委ねたとき、弟子たちの心に聖霊が宿りました。聖霊は、弟子たちに知恵と力を与え、あらゆる苦しみを乗り越えてゆく希望をもたらしたのです。
 苦しみの中で、イエスの言葉の本当の意味を解き明かす力、すなわち聖霊がやって来る。聖霊がやって来て、イエスの言葉の本当の意味を悟るとき、わたしたちの心は父なる神の愛で満たされる。それを、苦しみの三位一体と言ってもいいでしょう。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というパウロの言葉を支えに、苦しみの秘儀を生きてゆきたいと思います。