バイブル・エッセイ(430)『下りてきてくださる神』


『下りてきてくださる神』
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:1-7)
 イエス・キリストの誕生の場面は、聖書に「マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とだけ書かれています。宿屋には泊まる場所がなかったので、イエスは馬小屋で誕生したというのです。このことには、とても深い意味があるように思います。エスが馬小屋で生まれたというのは、つまり、貧しい人たちを救うために、神様が貧しさの中に下りてきたということです。
 羊飼いたちは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使のお告げを聞いてベツレヘムにやって来ます。もしマリアたちが、「ベツレヘム・センチュリー・ハイアット・ホテル」に泊まっていたらどうだったでしょうか。羊飼いたちは、汚れて臭いのする自分たちの服を恥じ、ホテルの前からすごすごと引き返したに違いないと思います。羊飼いたちは、自分たちと同じように汚れ、臭いのする馬小屋だったからこそ入ることができたのです。飼い葉桶に寝ていたからこそ、イエスを見て、神様が自分たちのところに来てくれた、自分たちのために救い主が生まれたと思うことができたのです。
 低いところにいる人を救うためには、その人がいるところまで下りて行く必要があります。もし友だちが崖から落ちて怪我をし、下から助けを求めて叫んでいたら、わたしたちはどうするでしょう。崖の上から下を見下ろして「大丈夫だー。ここまで上がって来い」と叫ぶでしょうか。わたしたちがそう叫べば、怪我をして倒れている人は、「そんな無責任なー」と叫び返すに違いありません。ロープを下ろしても同じことです。怪我をした人は、自分の力で上まで登ることができないでしょう。下に落ちて怪我をしている人を救いたいのなら、自分が降りて行ってその人を背負い、上がってくるしかないのです。
 神様がしたのも同じことだと思います。地上で苦しんでいるわたしたちを見て、天国から「大丈夫だー。しっかりしろー」と叫んでいるだけの神様だったら、わたしたちは救われなかったでしょう。だからこそ神様は、人間になり、わたしたちのところまで下りてきてくださったのです。人間となって生まれ、倒れているわたしたちに手を差し伸べる神様、歩けなければ背負って運んで下さる神様となられたのです。
 神は、この世界の一番低いところに置かれている人たちを救うために、一番低いところまで下りてこられました。貧しい人たち、世間的に見れば、無力で何もできない人たちのところにまで下りてきてくださったのです。だから、わたしたちは、無理をして自分の力で崖をよじ登る必要がありません。立派なことをして有名になったり、お金持ちになったり、あるいは厳しい修行をして、自分の力で上に登ろうとしなくていいのです。
 わたしたちが救われるために必要なのは、ただ自分の弱さ、無力さを認めて、イエスに助けを求めることだけです。ただ、「主よ、助けて下さい」と祈れば、イエスはわたしたちを引き上げて下さいます。それが、キリスト教の救いということです。つっぱって「わたしは助けなんか必要がない。自分で登れる」と、手を差し出さなければ、どんなに助けたかったとしても助けることができません。イエスはいま、わたしたちのすぐ隣まで下りてきて、わたしたちを助けたくてうずうずしています。自分の弱さ、無力さを素直に認めてイエスに手を差し伸べ、イエスに救っていただきましょう。
※写真…カトリック高千帆教会のクリスマス飾り。