バイブル・エッセイ(174)永遠の命を生きる


永遠の命を生きる
 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネ3:31-36)
 わたしたちはよく葬儀のときなどに、故人が死を通って永遠の命に移されたという言い方をします。ですが、今日の福音でイエスは、御子を信じる人はすでにこの地上で永遠の命を得ていると言っています。一見矛盾した考えに見えますが、神の前ではこの2つとも同じくらい真理なのだろうと思います。
 確かにわたしたちは、肉体の死を迎えるとき、自分に与えられた財産、能力、家族、友人など全てを神にお返しして完全に永遠の命に移されます。ですが、この地上で生きているあいだも、日々、自分自身に死ぬことによって永遠の命に生きることができるのです。自分の未来を自分でコントロールしようとする努力をやめ、すべてを神の手に委ねるとき、怒りや憎しみを乗り越え、和解のための一歩を踏み出すとき、そんなときわたしたちは地上の命によって生きているのではなく、永遠の命によって生かされているのです。あらゆる恐れを乗り越え、神の手に自分のすべてを委ねること、すなわち「神のために自分の命を捨てる」ことによって、わたしたちは日々、永遠の命をいただくのです。
 死を恐れて自分自身にしがみつくならば、地上の命によって生きていたとしても、永遠の命によって生かされることはありません。自分にしがみつく人は、死を恐れるばかりに、本当の命を生きることができないのです。神はそのような人を何とか本来の命に立ち返らせようとして試練を送られることがありますが、それがきっと「神の怒り」ということなのでしょう。
 そのように考えるならば、キリスト教徒にとって生きるとは死ぬことであり、死ぬことは生きることだと言えるでしょう。十字架上ですべてを神の手に委ねたイエスに倣い、生も死も超越した永遠の命に生かされることができますように。
※写真の解説…真っ赤に咲いたツツジの花。六甲山高山植物園にて。