忘れられたスラム街〜スモーキー・マウンテンからの報告9


スラムでの日々を振り返って1
 今も思い出すと、スラム街の子どもたちの笑顔がはっきりと目に浮かぶ。あれほど困難な状況の中に置かれながら、どうしてあんな笑顔を浮かべられるのだろう。
 困難に直面した時、大人はどうしても将来への心配や過去への後悔に駆り立てられ、心を消耗させて疲れた顔になってしまいがちだ。しかし、子どもたちはそんなことがないように見える。食べ終わったスイカの皮にひもをつけて引っ張ったり、ゴミの山の中から見つけた電球のソケットをコマにしたり、いつでも、どこからでも遊びを見つけ出して今を楽しんでいる。子どもたちの笑顔に何の曇りもないのは、きっと将来でも過去でもなく今だけを考え、今だけを生きているからだろう。
 子どもたちは、与えられている恵みに敏感だと言いかえてもいいかもしれない。将来や過去のことで目を曇らされた大人には見えないが、神様はいつでもわたしたちが幸せに生きるのに十分なだけの恵みを与えて下さっている。子どもたちは、曇りのないまなざしでその恵みを見つけ、味わうことができるのだ。神に全てを委ねて、将来への不安や過去への後悔の束縛から解放されるとき、わたしたち大人も子どものように生きることができるのかもしれない。「子どものようにならなければ誰も天の国に入れない」とイエスが言ったのも、きっとそのような意味だろう。子どもたちの純粋な目は、世界中のどこにでも天国を見つけることができるのだ。
 自分が不機嫌な顔をしているのに気づくとき、わたしはいつもスラム街の子どもたちの笑顔を思い出すことにしている。そして、今ここで自分に与えられている神様の恵みを探すように心がける。目の前に置かれた一杯のお茶、教会の庭に咲く美しい花、吹き抜けるそよ風、身近なところにどれだけたくさんの恵みがあるか気づくと、心がほぐれて自然に笑顔が戻ってくる。
※写真の解説…カワワ・ビーチへと続く運河の堤防。