バイブル・エッセイ(348)三位一体の交わり


三位一体の交わり
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:12-15)
 「父が持っておられるものはすべてわたしのもの」、「その方がわたしのものを受けあなたがたに告げる」というイエスの一連の言葉は、三位一体の交わりが何であるかを、わたしたちに余すところなくはっきり教えてくれます。三位一体の交わりとは、互いに自分のすべてを差し出しあう愛の交わりであり、所有や独占という考えが一切ない完全な分かち合いなのです。
 完全な分かち合いこそが三位一体の一致の本質だとすれば、一致を妨げるものの本質は所有や独占にあると言っていいでしょう。三位一体の愛の論理は、常に自分のものをどうやって相手に差し出すかを考えさせ、わたしたちのあいだに豊かな交わりと一致を生むのに対して、所有や独占の論理は、常にどうやって自分のものを守るかを考えさせ、わたしたちのあいだに分断を生むのです。
 持てば持つほど、人と人とが切り離され、ばらばらになっていくということが確かにある思います。フィリピンのスラム街でボランティアをしていたときのことです。その施設で働く他のボランティアたちと話しているとき、興味深い事実に気づきました。毎週やって来て、貧しい人たちのために熱心に働くボランティアたちの多くが、自分自身も社会の周辺部に追いやられた貧しい人たちだったのです。
 もちろん、お金持ちもやって来ます。ですが、彼らがやって来るのはせいぜい年に数回。大きな金額を寄付して、満足そうに帰っていく人がほとんどです。それでも、まだスラム街に足を運ぶならばましなほうで、お金持ちの中には「貧しい人たちは怠け者だから貧しい。わたしたちは努力して稼いだのだから、分かち合う義務などない」と考える人もいるようです。これこそ、まさに所有と独占の論理と言っていいでしょう。このような考え方は、人と人との間に大きな壁を作ります。
 他方で、毎週やって来て熱心に奉仕する一人の青年は、自分自身もスラム街の出身で、ふだんはデパートの清掃の仕事をしています。いわゆる貧しい階層に属する人です。せっかくの休みにまで施設にやって来て無償で働く彼に、わたしはあるとき「なぜ、そんなに熱心に奉仕するのか」と尋ねました。彼の答えはとても簡単でした。「だって、放っておくわけにはいかないだろう」と言うのです。財産と呼べるようなものを何も持たない彼は、自分よりもさらに貧しい人たちの苦しみに深く共感し、自分のものを守ることよりは、むしろ与えることを選んだのです。これこそまさに、全てを与え尽くす三位一体の愛の論理と言っていいと思います。このような考え方は、わたしたちの間に豊かな交わりと一致を生み出します。
 持つことは争いと分断を生み、持たないこと、与えあうことは交わりと一致を生む。これは、世界中どこでも言えることだろうと思います。もちろん、財産をすべて放棄して貧しくなれということではありません。もし財産がわずかだったとしても、それに強く執着して分かち合うことができなければ何の意味もないからです。大切なのは、わたしたちが持っているもの、与えられたもののすべてを、三位一体の神の手にお委ねすることです。そうすることによってのみ、わたしたちは互いに自分のすべてを差し出しあう三位一体の愛の交わりに入っていくことができるでしょう。そのとき、神とわたしたちとのあいだに完全な一致が実現するのです。それだけではありません。神の御旨のままに、わたしたちがお互いに自分のすべてを差し出しあう関係を結ぶことができれば、わたしたちは教会の中にも三位一体の愛の交わりを実現してゆけるはずです。そのとき、教会に完全な一致が実現すると言っていいでしょう。
 三位一体の愛の交わりの中に深く入っていくことができるように、また教会に完全な一致を実現していくことができるように、持たない恵み、互いに与え合う恵みを神に願いたいと思います。
※写真…スラム街の夕暮れどき。フィリピン、マニラにて。