やぎぃの日記(102)福島はいま3〜仮設住宅


福島はいま3〜仮設住宅
 次に出会ったのは2組のご夫婦だった。玄関のしきりを取り外してしまい、2軒の玄関をつなげて縁側のようにしてお茶飲み話をしておられた。神戸の教訓に学び、もともとの共同体が壊れないよう浪江町で隣近所だった人たちが同じ仮設住宅に入るように工夫がされているそうで、この2組のご夫婦ももともとご近所づきあいをしていたのだという。仮設住宅で隣同士になってからは、その仲がより深まったらしい。
 そのうちのお1人、舛倉さんのご主人はとても人懐こい方で、見ず知らずのわたしたちにもお茶を出してくださった。最初は、行政がようやく訪ねてきたのかと思ったという。この仮設に入って1ヶ月あまり、浪江町役場からはまだ誰も人が訪ねてこないのだそうだ。「ちょうどいいから代わりにあんたたちが不満を聞いてくれ」と言って、色々なことを話してくださった。
 大きな不満の一つは、仮設住宅の床のことだった。「コンパネ」と呼ばれる合板に薄いカーペットを貼り付けただけのもので、暑い今はいいが、これでは冬の寒さが思いやられる。仕方がないので近所のホームセンターから厚さ1センチくらいの簡易タタミを買ってきて何枚か敷いたのでずいぶんましになったが、そこまでできないお年寄りも多いだろう。何とかしてほしいとのことだった。簡易タタミは1枚1580円だそうで、そのくらいなら教会からも何らかの形で援助できるかもしれない。家の中に入れてもらって実際に踏んでみたが、それが敷かれているのといないのでは雲泥の差のように感じられた。
 冬物の衣料や布団がまったくないことも不安だと言っていた。冗談で「家に帰りさえすれば金の延べ棒でも茶釜でもなんでもあるんだがなあ」と言っておられたが、それが実感なのだろう。一時避難が2度ほどあったが、服まで持ってこられなかったという。
 舛倉さんは浪江町で代々、農業を営んでこられた頑健な方だ。ところが、先日、壁に釘を打とうとしてちょっと金槌をふるっただけで手に豆ができてしまったという。5ヶ月に及ぶ避難生活で、確実に体が弱ってきているのだ。畑も草ぼうぼうになってしまったし、歳も歳だし、これでは何か月か先に帰れたとしても農業は無理かもしれないなとも言っておられた。
 わたしたちが小一時間ほど話をうかがっているうちに、入れ替わり立ち代わりいろいろな方が舛倉さんの家を訪ねてきた。この2軒の家の玄関が、まるでコミュニティーセンターのような機能を果たしているらしかった。訪ねて来た1人の老婦人は、津波で家を流されてしまったとのことだった。地震津波原発、三重の被害だ。「こうやってお互いに励ましあわなかったら、どうにもならねんだ」という舛倉さんの言葉が耳に残った。
※写真の解説…仮設の玄関先を改造した縁側でお茶飲み話をしている、避難者の御家族。左側の御家族は農業、右側の御家族は漁業に従事しておられたという。一番左側のご婦人は、二本松教会信徒会長の柳沼さん。