バイブル・エッセイ(213)イエスが降らせた火


エスが降らせた火
 エスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。(ルカ9:51-56)
 自分たちを受け入れてくれない相手に「火を降らせましょうか」と、弟子たちがとんでもないことを言い始めます。このとき弟子たちの念頭にあったのは、旧約の大預言者エリアのことでしょう。バアルの神官たちと争って天から火を降らせ、生贄を焼き尽くしたエリア。王が派遣した追っ手の兵たちを、天からの火で焼き尽くしたエリア。そのイメージがこの言葉に現れているようです。
 ですが、イエスはこの弟子たちを戒め、そんなことをするのをゆるしませんでした。エスは自分たちを受け入れてくれない相手を滅ぼすために来たのではなく、かえって一人残らず救うために来られたからです。エスに与えられた使命は、その意味でエリアとまったく違う新しいものでした。
 イエスもやがて天から火を降らせる日がやってきますが、イエスが降らせた火は敵を焼き尽くす火ではなく、むしろ自分自身を焼きつくす火でした。エスが降らせたのは、五旬祭の日に弟子たちの上に「炎の舌」のように下った火、敵ではなく自分自身の弱さやプライドを焼き尽くし、命をかけた宣教へと駆り立てる聖霊の火でした。エスがもたらした火は、自分たちを受け入れてくれない相手ではなく、むしろそのような相手を受け入れられない自分自身を焼き尽くし、相手の救いのために命さえも差し出させる火だったのです。
 聖霊の火によって焼き尽くされるとき、わたしたちの心に喜びや感謝、慈しみなどの炎があかあかと燃えさかります。それこそ、わたしたちを福音宣教へと駆り立てる力そのものなのです。相手の上に火を降らせて焼いてしまいたいと思うようなことがあったら、むしろ焼き尽くされるべきなのは、自分の醜いエゴやプライドだということを思い出しましょう。 
※写真の解説…道端に咲いた彼岸花三重県紀宝町にて。