バイブル・エッセイ(243)ひとりでに育つ愛


ひとりでに育つ愛
 神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ4:26-29)
 「神の国」が心の中でひとりでに成長して豊かな実をつけるなんて、ちょっと意外な気がしませんか。毎日、弱い自分に打ち勝ちながら少しずつ信仰を育てているというのが私たちの正直な実感で、放っておいてもひとりでに育つというのは何か都合がよすぎるようにも思えます。どう受け止めたらいいのでしょう。
 例えば、私たちの心に蒔かれた種を、神への愛と考えてみてはどうでしょう。10代後半か20代くらいの若い頃のことを思い出してみてください。恋に落ちた若者の心の中では、相手への想いがひとりでに成長していきます。初めはちょっと気になる存在だったのが、しだいにもっと話したい、もっとそばにいたいと思うようになり、ついには寝ても覚めてもその人のことばかり考えている。そんな経験が皆さんにもあったのではないでしょうか。どうしたら相手に喜んでもらえるだろうか、相手のために何ができるだろうか、そんなことばかりを考えているうちに、相手への愛がどんどん成長していきます。なぜそんなことになってしまうのかは本人にもわかりませんが、恋愛とはそういうものなのです。
 もしわたしたちの心に蒔かれた種が神への愛であるならば、きっと同じことが起こるはずです。もっと神様と話したい、もっと神様のそばにいたいという気持ちは、まさに信仰に他なりません。どうしたら神様に喜んでもらえるだろう、神様のために何ができるだろう、そう考えているうちに「神の国」はわたしたちの心の中でひとりでにどんどん成長していきます。なぜそんなことになってしまうのかは誰にもわかりませんが、「神の国」とはそういうものなのです。
 心の土壌に愛の種が落ちたとき、「土はひとりでに実を結ばせ」ます。もし信仰を育てるのに苦労しているとすれば、それは神への愛が足りないかもしれません。信仰という「神様への恋」に落ちたときの情熱をもう一度思い起こし、神様に夢中になれたらいいですね。
※写真の解説…大地に育つ野菜たち。長野県軽井沢町にて。