『自己犠牲の種』
イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(マルコ4:30-32)
神の国はからし種のようなものだとイエスは言います。「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さい」神の国の種が、「蒔くと、成長して空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」というのです。「地上のどんな種よりも小さい」神の国の種とは、一体どんな種なのでしょう。
それは、自己犠牲という種ではないかと思います。誰かのために自分自身を犠牲にする愛の中にこそ、神の国の種があるのです。例えば、家庭でのお母さんの愛は、確かに神の国の種だと思います。子育て中のお母さんは、毎日、掃除や洗濯、料理に明け暮れています。そのような奉仕は当然と思われ、人から評価されることもない小さな奉仕です。ですが、そのような小さな奉仕が、子どもたちや家族の心に神の国の種を蒔いてゆきます。そのようなお母さんの姿を見て、子どもたちは、自分が愛されているということを深く感じ取るのです。誰の目にもつかないお母さんの自己犠牲は、子どもたちの心の奥深くに愛の種を蒔いてゆくのです。
子どもたちの心に蒔かれた愛の種、「神の国」の種は、子どもの心の中に優しさという幹を育て、親切という枝を伸ばしてゆきます。そして、人々がその子どものまわりで憩うことができるようになるのです。もしかすると、その子ども学校の先生や企業の経営者などになって、何百人、何千人もの人たちがその人の周りで憩うかもしれません。もしそうなったとしても、すべては掃除や洗濯、料理などのまったく目立たない奉仕の中で蒔かれた、小さな小さな自己犠牲の種から始まったことなのです。
イエスが蒔いた種もそうでした。イエスがこの世界に「神の国」の種を蒔いたとき、それはとても小さな種だったのです。イエスが人類の歴史の中に蒔いた「神の国」の種は、一人の大工の息子の生涯と死という小さな出来事でした。何万の人々を従えて国々を征服し、大帝国を築いたというようなことではまったくなかったのです。歴史の中で見たとき、すぐに忘れられても仕方がないような、小さな出来事にすぎなかったのです。しかし、その生涯と死に込められたイエスの愛は、周りにいた人たちの心に深く落ち、芽を出して成長し始めました。罪びとである自分たちをこれほどまでに愛して下さったイエス。その小さな出来事にこめられた大きな愛を、弟子たちは語り広めずにいられなくなったのです。その愛に倣って、すべての罪人をゆるし、貧しい人々、苦しんでいる人々に寄り添わずにいられなくなったのです。こうして、イエスの蒔いた小さな自己犠牲の種から教会が芽を出しました。教会は幹を伸ばし、枝を広げて、今では世界中の何十億もの人々がその周りで憩うほどに成長しました。ですが、すべての始まりは、イエスという一人の男の生涯と十字架上での自己犠牲という小さな種だったのです。
「神の国」は、小さな自己犠牲の種から始まります。そのことをしっかりと心に刻みたいと思います。昨日、教会でカトリック・ボランティアの集いが行われましたが、福音の種は、口先だけの言葉や華々しいイベントによってではなく、むしろ苦しんでいる人たちのため、貧しい人たちのためにわたしたちが捧げる小さな自己犠牲によって蒔かれるのです。口先だけの言葉や一時の興奮は、人々の心の表面に落ちるだけで、そこから大きく育つことがありません。ですがが、小さな自己犠牲にこめられた愛の種は、人々の心に深く落ちてその人を変えてゆきます。その人の心に愛をしっかりと根付かせ、その人の心に優しさや親切さを育ててゆくのです。「神の国」の実現のために、小さな自己犠牲の種を蒔いてゆくことができるよう神に願いましょう。
※写真…イエズス会長束修道院のカラシダネの木。