バイブル・エッセイ(810)心に蒔かれた福音の種


心に蒔かれた福音の種
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:26-32)
神の国を何にたとえようか。それは、からし種のようなものである」とイエスは言います。からし種は、蒔かれたときはどんな種よりも小さいけれど、育つと、見上げるほどの大木になる。わたしたちの心に蒔かれた福音の種、神様の愛の種も、初めは小さいけれど、どんどん育って、人々がその下で憩うほどの大木になるということでしょう。
 イエスガリラヤ湖のほとりで宣教を始めたとき、その活動はほんの小さな種のようなものでした。最初にイエスは、出会った病人を放っておくことができず、愛に突き動かされてその人を癒しました。すると、イエスのもとに次から次へと病人が運ばれてくることになりました。人々がどれだけ苦しんでいるかを知ったイエスは、「苦しんでいる人たち、救いを待っている人たちがいるのはこの町だけではない。他の町へも行こう」と考え、苦しんでいる人たちが待つ次の町へ、次の町へと旅を続けます。こうしてイエスの愛は、ガリラヤ地方全体を覆うほど大きく育っていったのです。やがて、イエスは、自分の行けないところにまで弟子たちを派遣するようになります。そして最後にイエスは、「世界の果てまでも、福音を告げ知らせないさい」と言い残してこの世を去るのです。ガリラヤの一角から始まったイエスの愛、からし種のような愛が、世界中で苦しんでいるすべての人たちを覆いつくすほどの巨木に成長したといっていいでしょう。これが、イエスご自身の「からし種」のたとえです。
 「苦しんでいる人たちを放っておくことはできない」という思いこそ、わたしたのち心に蒔かれた福音の種だとわたしは思います。その思いの導くまま社会の片隅に追いやられた人たちのもとに出かけてゆき、その人たちの苦しみに触れると、「この人のために何かしてあげたい」という気持ちはますます大きく育ってゆくのです。どうしてそうなるのかは誰にもわかりませんが、わたしたちの心はそうなっているのです。宇部・小野田の教会も、最初はこの地に蒔かれた「からし種」くらいの種でしかありませんでした。宇部の炭鉱で働く人たちの疲れ切った姿を見た神父が、琴芝駅の近くで始めた家庭集会が宇部教会へと発展。さらに小野田のセメント工場で働く人たちのためにもということで小野田教会が作られ、さらに高千帆教会が作られていったのです。すべて「苦しんでいる人たちを放っておけない」という思いに駆られ、その思いが成長してゆく中で起こったことでした。
 わたしたちの周りには、苦しんでいる人が他にもたくさんいます。心に蒔かれた福音の種、「苦しんでいる人たちを放っておくことはできない」という思いに導かれて進んでゆくなら、わたしたちの愛はもっともっと大きく成長し、わたしたちの教会ももっともっと大きく成長してゆくことができるでしょう。まだまだ小さなこの種を、祈りながら、力を合わせて育ててゆきましょう。