バイブル・エッセイ(247)心から出るもの


心から出るもの
 エスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:14-24)
 食べ物が人を汚すのではない。なぜなら、食べ物は口から腹に入って外に出されてしまうから、とイエスはおっしゃいます。同じことが、言葉についても言えるでしょう。誰かの言葉は、わたしたちを汚すことがありません。なぜなら、言葉は音に過ぎず、耳に届くと同時にどこかへ消えてしまうからです。むしろ、わたしたちを汚すのは、その音を聞いたときに起こってくる心の反応でしょう。
 同じ一言が、聴く人の心にまったく違った反応を起こすことがあります。例えば、物覚えが悪いとか、鈍感だとか、何か自分の欠点をからかわれたとしましょう。ある人はその言葉に激高し、激しく反論したり、相手に憎しみを抱いたりするでしょう。なぜなら、自分のその欠点を決して認めたくないからです。その欠点を認めると、自分の存在が否定されたかのように感じるのかもしれません。しかし、ある人はそのような言葉を聞いても平然と受け止め、反省の材料にします。そのような不完全な自分でも、神様はありのままに愛してくださっていると確信しているので、怒る必要がないのです。そんな人は、欠点を指摘してもらったことを機会として、神様の愛によりふさわしいものに変わっていけるよう努力することでしょう。
 逆に、褒められたときもそうです。過分な褒め言葉で称賛されたとき、ある人は大喜びで自分がいかに優れているか誇ろうとします。その人はきっと、普段から自分を実際の自分以上のものと思っていて、それが認められたのがうれしくて仕方がないのでしょう。逆に、ある人は、それは過分な称賛だと受け止めて身を低くします。人が何と言おうと、自分は大いなる神の前で取るに足りないものにすぎないと知っているからです。
 結局のところ、怒りや憎しみ、傲慢や思い上がりといった汚れた思いは、体の外から入ってくる言葉からではなく、わたしたちの心からやって来るのです。外から入ってくる言葉は、ありのままの自分を受け入れ、神の愛に満たされた人の心に触れることができません。外から入ってくるものを防ぐより、祈りの中でまず自分の心を整えることから始めたいと思います。
※写真の解説…梅の枝に止まったメジロ北野天満宮梅園にて。