バイブル・エッセイ(805)小さな奇跡


小さな奇跡
そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:15-20)
 使徒たちが宣教に出かけると、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と語られています。悪霊を追い出したり、蛇をつかんだり、病を治したりというようなことが、実際に起こっていたのかもしれません。ですが、「語る言葉が真実であること」のしるしは、そのようなことだけとは限らないでしょう。語った言葉の通りに生きる、わたしたちの生きざまそのものが、イエスの教えが真実であることのしるしでありうるのです。/span>
 今、教会の庭で「セント・コルベ」の薔薇が花を咲かせていますが、アウシュビッツの聖者、コルベ神父がとった行動、処刑される脱走者の身代わりとなって餓死刑の罰を受けるという行いは、神の愛の何よりの証でしょう。たまたまその場に居合わせたというだけの理由で、誰かの身代わりになって死ぬということは、毒蛇を素手でつかんで害を受けないということ以上に、ありえないことだからです。そんなことがもしできたとすれば、それは、人間を越えた大いなる力がそこに働いていると考えざるをえません。
 「ありえないこと」が起こるのが奇跡であるとすれば、奇跡を起こすことはわたしたちにもできます。例えば、はじめて行った教会なのに、まるで昔からの友だちのように暖かく受け入れてくれた。それは、普通ありえないことであり、小さな奇跡だと言っていいでしょう。初めて会った神父さんなのに、昔からの友人たち以上に真剣に悩みを聞いてくれた。それも一つの奇跡です。この教会の人たちは、何か間違いを犯した人がいても、あっさりとゆるしてしまう。いつまでも根に持ったり、人の悪口を言ったりすることがない。それも、奇跡のうちに入ると思います。互いが互いのよさを認め合い、弱さを補いあって、まるで一つの体のように生き生きとした協同体を作り上げている。愛のうちに、一つの心に結ばれている。それも奇跡だろうと思います。そのような奇跡が、わたしたちが語っている愛の教えが真実であることを証するのです。
 無理をして、いいかっこをするということではありません。もしわたしたちが福音を信じているなら、自分自身が救われたことに心から感謝しているなら、イエスがいつもわたしたちと一緒にとどまり、そのような奇跡を起こしてくださるのです。例えば、誰かの欠点がゆるせないと感じたとき、自分自身がどれだけ多くの欠点を神様からゆるされているかを思い出せば、自然と相手をゆるすことができるようになります。わたしたちの心に宿ったイエスの愛が、ゆるしを可能にしてくれるのです。「主が共に働く」とは、そういうことだろうと思います。奇跡を起こすのはわたしたちではなく、イエスご自身なのです。
 イエスが昇天したとき、弟子たちは呆然としてそこに立ち尽くしていたと書かれています。イエスがいなくなってしまった今、自分たちに何ができるのだろうか。どうしたら福音を力強く証できるのだろうかと考えて、途方に暮れていたに違いありません。ですが、何も心配することはないのです。わたしたちの心にイエスから受けた愛が宿っているなら、奇跡は必ず起こります。イエスから受けた愛を思い起こし、感謝することから、奇跡をはじめてゆきましょう。