バイブル・エッセイ(376)しるしの宗教


しるしの宗教
 主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:10-14)
 「主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる」という預言の通り、神ご自身が目に見えるしるしとなってこの世界に来られました。それが、イエスの誕生という出来事の意味です。キリスト教は、このしるしが与えられたことによって始まった、「しるしの宗教」と言っていいでしょう。
 旧約の時代にも、神は人間にしるしを与えていました。紅海を渡る奇跡やイザヤなどによる預言は、神から与えられた愛のしるしと言っていいでしょう。しかし人間は、驚くべき出来事や伝聞の言葉だけでは納得できませんでした。神を直接見、その声を聞かなければ信じられなかったのです。そこで、神は最後の手段として、神が人間になるという究極のしるしを与えて下さいました。わたしたちは、イエスにおいて神の愛を目で見、耳で聞き、手で触れて、神の愛を確信する恵みを与えられたのです。
 ですが、このしるしには危険も伴っていました。神がもし人間になったとすれば、それは人間を神と見なすことと紙一重だからです。そのため、他の一神教は神が人間になることを決して認めませんが、わたしたちは人間イエスが神であることに疑いを持っていません。なぜなら、エスの生涯には、人間を神と見なして思い上る偶像崇拝的な要素が一片もないからです。人間イエスは、すべてにおいて神の御旨のままに行動し、神のしもべとしての生涯をまっとうしました。また、最後には十字架上にかけられて栄光を神にお返しになったのです。
 神の愛が目に見えるしるしとなったこと、人間となってわたしたちの間に住まわれたことを信じるわたしたち、「しるしの宗教」であるキリスト教を信じるわたしたちには、イエスに倣って神の愛のしるしとなる使命が与えられています。大きなことをしたり、神の愛について美しい言葉で語ったりするだけでは不十分です。わたしたち自身を差し出し、わたしたち自身が愛のしるしになる必要があるのです。イエスに倣って神の愛のしるしとなるとき、わたしたちは真のキリスト教徒になるとさえ言えるでしょう。
 神の愛のしるしとなるためには、偶像崇拝の危険を取り払う必要があります。イエスに倣って、神のしもべに徹する必要があるのです。そのためには、まずいつも祈りの中で、神の御旨を聞き続けることでしょう。それをやめれば、わたしたちは神の愛のしるしではなくなり、自分の思いを絶対化する偶像崇拝に陥ることになります。また、神の愛のしるしには、すべての栄光を神に帰することも求められます。「わたしは人々のために自分を差し出しているんだ。いいことをしてやってるんだ」という傲慢に陥ってはならないのです。神の愛のしるしとして生きられるのは、「神の道具として働かせていただいているだけ」と心から思える人だけなのです。
 エスに倣って神のしもべとして生きるときにだけ、わたしたちの中に神の愛が受肉し、わたしたちは神の愛のしるしになることができます。常に神の御旨に耳を傾け、すべての栄光を神に帰することで神の愛のしるしとなれるよう祈りたいと思います。
※写真…カトリック六甲教会にて。クリスマスローズ