バイブル・エッセイ(250)心の目を開く


心の目を開く
 そのとき、イエスと弟子たちはベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。(マルコ8:22-25)
 長いあいだ暗闇の中にいた人がいきなり強い光を浴びれば、きっと目がくらんでしまうでしょう。そこでイエスは、この人の目に少しずつ光を戻すことにしました。はじめは人だけがぼんやりと、次にすべてがはっきりと見えるようになさったのです。
 わたしたちの心の目を開くときにも、イエスはきっと同じようにしてくださるでしょう。もしこの世界のすべてがありのままに見えるなら、恵みに満ちたその輝きの前でわたしたちの心の目はくらんでしまうに違いないからです。世界の輝きに照らし出されて、自分自身がどれほど小さく罪深い者であるかに気づいたとき、わたしたちの心はその衝撃に耐えられないかもしれません。だからこそ、ありのままの世界が見えなくなっているわたしたちの目を開くとき、イエスはゆっくり少しずつ開いてくださるのです。
 心の目を曇らせている思い込みや執着、憎しみ、劣等感などの覆いを、イエスは一つ一つ取り去ってくださいます。すべてがはっきり見えるまで、イエスはその温かな手で何度でも繰り返しわたしたちの心にさわってくださるのです。イエスの愛の温もりのなかで、わたしたちの心の目の覆いは、薄皮をはぐようにして一枚一枚取り除かれていきます。そのたびごとに、わたしたちはありのままの世界のすばらしさに感動し、自分自身の罪深さを恥じて成長していくのです。
 やがて全てがはっきり見えるようにになったとき、わたしたちは雨上がりの花びらにたまった一つぶの水滴の中にさえ神の無限の愛がつまっていること、それまで敵と思っていた人の中に全人類の救い主、キリストが生きていることに気づき、限りない恵みで満たされるでしょう。その日まで何度でも繰り返しイエスの前に立ち、癒しの恵みを願いたいと思います。
※写真の解説…満開の菜の花。神戸市総合運動公園にて。