バイブル・エッセイ(379)『愛の中で生まれ変わる』


『愛の中で生まれ変わる』
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川ヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:13-17)
 「主の洗礼」というのは、とても不思議な出来事です。なぜ、神ご自身である方が、人間の手から洗礼を受けなければならなかったのでしょう。申し出を受けた洗礼者ヨハネも、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、初めは断ろうとしました。しかし、イエスは「正しいことをすべて行う」べきだと言って洗礼を受けたのです。なぜでしょう。それはわたしたちに、どうしたら普通の人間が神の愛を宣べ伝える者になれるのか、福音宣教者として生まれ変わることができるかを、身を以て示すためだろうと思います。
 「主の洗礼」とは、どのような出来事だったのでしょう。まず、ときが満ちてナザレから出てきたイエスは、罪がなかったにもかかわらず洗礼者ヨハネの前に出て跪いきました。それは、謙遜の模範に他なりません。エスは、神の子でありながら、人間の前に自分を小さなものとしたのです。そして、洗礼者ヨハネの手によってヨルダン川に沈められました。洗礼者ヨハネを通して、神の手に自分の命を委ねたのです。そのとき、イエスに「神の霊が鳩のように」降りてきました。目に見えるほど、手で触れられるほどはっきりとした形で、神の霊がイエスに降り注いだのです。圧倒的な恵みに包まれたイエスの上に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が響きました。この降り注ぐ愛の中で、イエスは「神の子」としての尊厳と力を与えられ、福音宣教者として生まれ変わったと言っていいでしょう。
 わたしたちも、イエスと同じように洗礼を受けることによって、福音宣教者として生まれ変わることができます。思い上りを捨てて神の前に跪き、神の手に自分のすべてを委ねて祈るとき、わたしたちにもはっきりとした形で聖霊が降るのです。わたしたちの心に「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなうもの」という声が響くのです。
 これは、洗礼のときだけで終わる恵みではありません。わたしたちが遜り、神の手に自分のすべてを委ねるなら、いつでも、何度でも、神は惜しみなく愛を注いでくださるのです。いま、この瞬間にも天から聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が全地に響くのです。この圧倒的な愛の体験の中で、わたしたちはいつでも、何度でも、神の愛に満たされた福音宣教者として生まれ変わることができるのです。
 洗礼を受けたイエスは、神の愛に満たされて福音宣教の旅に出発しました。主の洗礼こそ、神の子として生まれ、大工の子として育ったイエスの人生を決定的に変える出来事だったのです。「主の洗礼」の記念日に当たって、わたしたちももう一度、洗礼の恵みを受け止めなおしたいと思います。遜った心で神に身を委ね、降り注ぐ圧倒的な愛の中で「神の子」としていただきましょう。そして、イエスと共に福音宣教に旅立ちましょう。
※写真…大阪城公園梅林の蝋梅。