バイブル・エッセイ(391)『信仰の揺るがぬ土台』


信仰の揺るがぬ土台
 ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」(ヨハネ9)
 律法学者とイエスに目を開かれた人の対話の中で、イエスに救われた者の極めて単純な、しかしどんな知恵をもってしても反論できない信仰の論理が浮かび上がってきます。それは、「わたしは確かに救われた。こんなことができるのは神様以外にいない。だからわたしは神様を信じる」という論理です。「目が見えなかったわたしが、今は見える」、だからわたしは神様を信じる。これ以上に明らかで力強い信仰の証はないでしょう。
 わたし自身にも、「目の見えなかったわたしが、今は見える」という体験があります。自分の将来について迷いながら、先の見えない闇の中を歩いていた青年だったころのことです。司祭になる道を考えながら、まだ神の愛がなんであるかわからず、どちらに向かって進んでいいか確信が持てなかったわたしに、ある日突然に光が与えられました。聖書の御言葉を味わいながら祈っているうちに、あるとき心の底からこれまで体験したことがないような不思議な喜び、安らぎが湧き上がってきたのです。エスと出会った初めての体験だったと言っていいかもしれません。このような体験を何回か繰り返すうちに、わたしを覆っていた不安や恐れなどの闇はすっかり取り去られ、司祭として光の中を歩む道が示されたのです。
 救いの体験は、いまも続いています。日々、さまざまな困難に直面し、ときには乗り越えられないかと思えるほどの試練に会うこともありますが、そのたびごとに神様が必要な恵みを必ず与えて下さるのです。与えられた司祭としての使命を果たすために必要な恵み、救いを求めて教会に集まってくる皆さんに、神様の愛を届ける使命を果たすために必要な恵みは必ず与えられるのです。かつて闇から光に移されたという体験だけではなく、現に今も、神様から日々救われ、光を与えられている。その体験が、わたしの信仰の揺るがぬ土台となっています。
 わたしたちは、それぞれに揺るぎない救いの体験、「目の見えなかったわたしが、今は見える」という体験を持っているはずです。だからこそ、わたしたちはどんな試練に直面してもキリストを神だと告白し、キリスト教徒として力強く生きていくことができるのです。だからこそ、どんなにキリスト教を誹謗中傷する人がいても、教会に大きなスキャンダルが発生しても、それで信仰が揺らぐことはないのです。そんなことはどうでもいいことだからです。大切なのは、わたしがかつて救われ、いまこのときにも救われているという事実なのです。信仰が揺らぎそうになるたびに、この事実に立ち返りたいと思います。「目の見えなかったわたしが、今は見える」、こんなことができるのは神様以外にいない、神様は確かにおられる。どんなときにも、この力強い信仰を生き続け、証し続けることができるように祈りましょう。
※写真…津和野にて。