バイブル・エッセイ(487)あなたはわたしの愛する子


あなたはわたしの愛する子
 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:21-22)
 イエスが洗礼を受けて祈っておられると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から響きました。キリスト教の福音は、天から響いたこの言葉に要約されます。私たちは一人残らず、神様に愛されて生まれてきた、神様の子どもなのです。洗礼を受けるということは、この事実を受けいれ、神様の愛に心を開くということ。神様の愛に満たされて、兄弟姉妹である教会の仲間たちと共に神の子としてふさわしく生きてゆくということに他なりません。
 わたしたちが神様から愛されて生まれてきたということは、疑いようもない事実です。なぜなら、もし神様がわたしたちを望んでいなかったなら、わたしたちは生まれてくるはずがなかったからです。神から愛され、祝福されなければ、この世界には何一つ存在することができません。石や木、草花や鳥、すべてのものは神が望んだからこそ存在するのです。わたしたちも確かに、神の望みによって生まれてきました。わたしたちは、生まれながらに愛されているのです。
 ですが、残念ながら世界の厳しい現実の中で、わたしたちはそのことを忘れてしまいがちです。「わたしは親にかまってもらえなかった。だから、愛されて生まれてきたわけではない」「わたしは世間からまったく無視されている。誰からも愛されていない」、そのように思い込んでしまうことがあるのです。そんなわたしたちに、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者」というメッセージを伝えるためにイエス・キリストはやって来られました。教会はそのためにあるし、それこそがすべてのキリスト教徒の使命だと言っていいでしょう。
 洗礼は、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者」という神の思いの、目に見えるはっきりとしたしるしです。全教会の祝福の中で司祭から洗礼を受けるとき、わたしたちははっきりと目に見える形で、自分が神から愛されていると実感することができるのです。洗礼とは、わたしたちの心が開かれる恵みだと言ってもいいでしょう。「どうせわたしなんか愛されるはずがない」とこれまで頑なに閉ざされていた心が神の愛に向かって大きく開かれ、心が神の愛によって満たされる。それが洗礼なのです。
 心が神の愛で満たされたとき、わたしたちは生まれ変わります。喜びと力に満たされて、神の子としての自信と誇りに満ちた歩みを始めることができるのです。まだ自分は愛されていないと思い込んで苦しんでいる人たちに、「あなたはわたしの愛する子」という神のメッセージを伝えずにはいられなくなるのです。この洗礼の恵みを思い起こし、一人でも多くの方に神のメッセージを届けることができるよう祈りましょう。