バイブル・エッセイ(252)隠れたことを見ておられる神


隠れたことを見ておられる神
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:1-4)
 「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」この言葉は、日々、それぞれの場で奉仕の業に励むわたしたちすべてにとって大きな喜びの福音であり、また厳しい戒めの言葉であると思います。
 例えば、子どもたちを育てているお母さん。朝早くから起きて夫や子どもたちのお弁当を作り、送り出してからは掃除、洗濯、買い物に追われる日々を過ごしておられることでしょう。そんなに働いても、子どもたちは自分で大きくなったような顔をし、会社から疲れて帰ってきた夫はねぎらいの言葉さえかけてくれないかもしれません。自分の働きは、一体なんなんだろうと思うことさえあるかもしれませんが、しかし何も心配することはありません。愛する夫のため、子どもたちのために身を粉にして働く皆さんの姿を神は見ておられ、必ず豊かに報いて下さるからです。これは、本当に大きな福音だと思います。
 しかし、子どもをいい大学に入れ、夫を出世させることで自分がよい母、よい妻として評価されたいという思いを持つようになれば、日々の働きはとたんに輝きを失ってしまいます。そうなれば、日々の働きは結局のところ自分のためのものになってしまうからです。仮に人の目は欺けたとしても、隠れたことを見ておられる神の目を誤魔化すことはできません。そのような利己的な心の動きを、神は悲しまれるでしょう。
 このことはお母さんたちだけでなく、会社で働くお父さんや学校の先生、司祭などすべての人に当てはまると思います。その人の働きが偽善なのか、それとも本当に善いことなのかは、隠れたところ、目に見えないその人の心の動機によって決まるのです。神を悲しませる偽善者とは、誰かに奉仕しているように見えたとしても、結局は相手を使って自分に奉仕する人。神を喜ばせる善い人とは、自分のことを計算に入れず、ただ相手への愛ゆえに奉仕する人、相手を通して神に奉仕する人のことです。
 もし自分が善いことをしていると思うならば、誰も評価してくれないからといって心配する必要はありません。この四旬節のあいだ、隠れたことを見ておられる神様をもっと喜ばせられるように隠れた奉仕を続けましょう。もし自分が偽善者だと思うならば、人を押しのけ、利用しても自分がよく見られたいと思う自分の浅ましさを恥じ、本来あるべき姿に立ち返ることができるよう神に祈りましょう。わたしたちは、神様を悲しませるためにではなく、喜ばせるため、人に仕えられるためではなく、仕えるために呼ばれたのですから。
※写真の解説…地面から顔を出した福寿草。埼玉県長瀞市、宝登山にて。