「神の子の平和」
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ5章)
キリスト教の福音を要約すれば、それはすべての人が大切な神様の子どもだということでしょう。父である神は、わたしたちを一人残らず子どもとして無条件に受け入れ、愛して下さる方だということ。何も出来なかったとしても、失敗ばかりだったとしても、わたしたち一人ひとりが限りなく大切な神様の子どもだということ。それこそ、イエス・キリストによってもたらされた福音なのです。今日の聖書箇所で、イエスは「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言っておられます。平和を実現するときにこそ、わたしたちは「神の子」と呼ばれるのにふさわしい者となるのです。
では、平和とは何でしょう。力による支配、安全保障を意味する「ローマの平和」や、ひたすら自分の心の平安を願う「ギリシアの平和」など、いろいろな考え方がありますが、わたしたちが目指すのは「キリストの平和」です。「キリストの平和」とは、すべての人が、大いなる神の愛の中で兄弟姉妹として一つに結ばれていること。「神の子」であり、兄弟姉妹であるわたしたちのあいだに、分裂や争いがないということです。互いにゆるしあい、助け合い、愛し合いながら共に生きることこそ、わたしたちの平和なのです。
神を一番悲しませるのは、神の子であるわたしたちが互いに傷つけ合うことです。カインとアベルの兄弟喧嘩に始まって、律法主義者の偽善や「放蕩息子のたとえ話」に到るまで、人類の悲劇は兄弟同士が競い合うことから生まれてきます。幼い兄弟姉妹でさえ、母親の愛を求めて競い合います。わたしたちが競い合うのは、自分が愛されたいからなのです。誰よりも自分が愛されたいという思いから、争いが生まれるのです。
誰かがしていることに腹が立ったら、自分の心をよく確かめてみる必要があります。その怒りの根底に、競争心が潜んでいる可能性があるからです。自分がそのことでみんなから愛されたいと願っていることで他の人が愛されるとき、わたしたちは嫉妬し、腹を立てるのです。例えば、歌が自慢の人は他の人の歌が自分よりも評価されたときに嫉妬し腹を立てるでしょう。歌では勝負にならないということを自覚している人が、歌が上手い人に嫉妬することはあまりないと思います。信徒が他の神父の説教を褒めたとき、神父が腹を立てることがあるのもそのせいです。わたしたちは一人ひとりが大切な神様の子どもで、競争する理由など何もないということに気づけば、腹立ちは消えるでしょう。
「神の子」として生きるために、「キリストの平和」を実現する者となるために、神から愛されているという自覚をしっかり持つことが大切です。心に虚しさがある人は、愛を求めて競い合うことになるからです。わたしたちは争いあう必要などないのです。誰もが大切な神の子なのです。「神の子」として地上に平和を実現してゆくために、兄弟姉妹と争うことがないように、神様がわたしたち一人ひとりを愛して下さっているということをミサの中で、祈りの中で実感したいと思います。