バイブル・エッセイ(261)信用できる友だち


信用できる友だち
エスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネ2:23-25)
 強欲な商人や両替商を鞭で神殿から追い出し、律法学者たちを言い負かす力強いイエスの姿を見て、多くの人々がイエスの名を信じました。しかし、イエスはその人々を信用しなかったといいます。なぜでしょう。
 先日、中学生たちと「豊かに生きるために何が必要か」ということについて話しました。お金が何より必要だという子もいれば、友だちが絶対に欠かせないという子もいて、お金派と友だち派が分かれました。お金派の子どもの中には「お金さえあれば、友だちだってたくさんできる」と主張する子もいました。友だち派の子は、よく考えて次のように反論しました。「お金があるからといって集まってくるような人たちは、結局のところ君のお金を利用しようとしているだけで、本当の友だちではない。お金持ちは、かえって本当の友だちをつくりにくいだろう」というのです。確かにその通りかもしれません。お金があるからといって集まってきた人は、お金がなくなればきっと去っていくことでしょう。そのような人たちを信用するわけにはいかないのです。
 イエスが人々を信用しなかったのも、きっと同じような理由でしょう。エスの力強い「しるし」を見、それを利用しようとして集まってきた人たちは、イエスからその力がなくなればきっと去っていくに違いありません。エスは「人間の心の中にある」そのような動きをよく知っておられたのです。
 本当に信用できる友だちは、大きな困難にみまわれ、全てを失ったようなときでも集まって来てくれる人たちです。お金や力があるからではなく、その人を、その人だからという理由で大切に思ってくれる人こそが信用できる友だちなのです。エスから信用してもらえるかどうかは、苦しみの中にある無力なイエスにどれだけ寄り添えるかにかかっていると言っていいでしょう。
 今、イエスは日本の東北の地で苦しんでおられます。津波に最愛の肉親を奪われ、家も財産もすべて無くしてしまった人々の悲しみやつらさを共に担いながら、イエスは東北の地で苦しんでおられます。原発事故で故郷を追われ、自分の家に帰ることすらできない人々の無念さやさびしさを共に担いながら、イエスは今、東北の地で苦しんでおられるのです。東北の人々の苦しみをイエスと共に担うとき、わたしたちはイエスと苦しみを共にすることができるでしょう。苦しみのときにもイエスを見捨てないことによって、イエスから信用される、イエスの本当の友だちになることができるでしょう。そうすることで、わたしたちはきっと東北の人々の本当の友だちにもなれるに違いありません。
 エスの本当の友だちになれるように、そうすることで東北の人々の本当の友だちになることができるように、祈りによって、ボランティア活動によって、遠くからでもできる支援によって、東北の人々の苦しみをイエスと共に担っていきましょう。
※写真の解説…津波で壊滅的な打撃を受けた集落。牡鹿半島にて。