バイブル・エッセイ(864)愛の掟

f:id:hiroshisj:20190714164932j:plain

愛の掟

 ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)

「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という律法学者の質問に、イエスは「律法には何と書いてあるか」と答えます。律法学者なら、そのくらい知っているだろう。何でそんなことを聞くんだ、ということでしょう。案の定、律法学者は正しい答えを知っていました。それでもしつこく食い下がる律法学者に、イエスはたとえばなしを聞かせ、「あなたは、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねます。「あなたはどう思うのか」、つまり「自分の心に聞いてみなさい」ということです。律法学者は、正しい再び正しい答えを出します。結局、律法学者は、イエスに聞くまでもなく、「永遠の命を受け継ぐ」ために必要なことを知っていたのです。知っているけど、なかなか実行できない。だから、理屈を曲げて、実行しなくていいことにしてしまいたい。それが、律法学者の本音だったのでしょう。
 このたとえ話は紙芝居や絵本にしやすいので、幼稚園でもよく子どもたちに話します。三人のそれぞれの対応を話して、「この中で、いいことをしたのは誰かな」と聞くと、どんなに小さな子どもでも「助けてあげた人」と答えます。どんなに小さな子どもでも、何がよいことで、何が悪いことかを知っているのです。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と申命記にありますが、人間の心には、すでに生まれたときから、何がよいことで、何が悪いことなのかが書き込まれているのではないか。そんな気がします。「人を傷つけたり、苦しんでいる人を放って置いたりしてはかわいそう。かわいそうなことはすべきでない」という掟。これこそが、すべての人間の心に刻まれた愛の掟なのではないでしょうか。この掟に従うときにこそ、わたしたちは互いに助け合い、労わりあって、幸せに生きることができるのです。
 「掟」というと何か怖い感じがしますが、わたしたちの心に書き込まれていることは、「取り扱い説明書」と呼んでもいいかもしれません。説明書に書いてあるとおりに、した方がいいことをし、しない方がいいことはしなければ、わたしたちは自分の人生を一番よく生きることができるのです。逆に、説明書を無視して好き勝手な使い方をすれば、きっと心は途中で壊れてしまうでしょう。心に書かれている説明書をよく読むこと。自分の心としっかり向かい合い、心に刻まれた愛の掟に従って行動することこそが、わたしたちが幸せになるための唯一の道なのです。
 大人になるにつれて、わたしたちは、子どもでも知っている単純な「愛の掟」、心の取り扱いルールを守れなくなってゆきます。それは、だんだんエゴが育ち、「自分さえよければいい」という考えに流されてゆくからでしょう。心に刻まれた愛の掟を素直に受け入れ、それを生きるための勇気と力を、神に願いたいと思います。