バイブル・エッセイ(264)殻を破って


殻を破って
 祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:20-26)
 教会の駐車場の片隅で、今年もアーモンドが花を咲かせました。アーモンドは、この時期サクラに似た薄いピンクの花を枝一杯に咲かせ、7月頃にはたくさんの実をつけます。その実には薄い果肉があり、その中に堅い殻で覆われた種があります。種の殻は、叩いても踏んづけても、ちょっとやそっとでは割れません。殻の内側に宿った命をイノシシやタヌキなどの外敵から守り、暑さや寒さを防いでくれるとても大切な殻です。ですが、この殻もいつか割れるときが来ます。そのとき、アーモンドの実に宿った命は、光にあふれた外の世界に顔を出し、天に向ってすくすくと成長し始めるのです。もし殻が割れなければ、真っ暗な殻の中でそのうち腐ってしまうでしょう。これは今日の福音で読まれた麦や、その他の草花の種にも言えることだと思います。種や実を覆う殻は大切なものですが、殻が破れたときそれらの命は成長を始めるのです。
 それと似たようなことが、人間の成長にも言えるかもしれません。人間の場合、殻に当たるのは自己愛だと思います。思春期にわたしたちは様々な知識や技術を身につけ、体験を積み、人々との交流を深めて、それらを土台にして自我を形成していきます。そのようなものを持っている自分、そのようなことができようになった自分を愛し、その自己愛を拠り所として思春期のさまざまな試練を乗り越えていくのです。健全な自己愛は、わたしたちが大人になっていく過程でなくてはならないものでしょう。
 しかし、いつまでもその中に留まっているとやがて命が腐り始めます。手に入れた学歴や能力、財産、地位、世間からの評価などにいつまでも執着していると、絶えず学歴や能力で人と自分を比べたり、いつもお金のことばかり考えて預金通帳とにらめっこしたり、周りの人たちの顔色をうかがいながら生きたりすることになってしまうのです。恐れと不安に支配されたそのような生活の中で、その人の命はしだいに腐り始め、自分の命を大切にしたがためにそれを失うということが起こりえます。
 大切な自己愛の殻も、いつかは破られなければなりません。これまで大切に自分を守ってくれたもので、もはや自分の一部とさえ感じているものですから、それを破るには大きな痛みが伴うでしょう。自分が否定されるような苦しみさえ味わうこともあるかもしれません。しかし、神の愛を信じてその苦しみを乗り越えたとき、初めてわたしたちの命は光にあふれた外の世界に顔を出し、天にむかってすくすくと成長することができるのです。
 エスは、十字架上の苦しみの果てに自分のすべてを神に差し出したとき、栄光に輝く復活の命へと移されました。ですから、何も心配する必要はありません。安心して神に身を委ね、これまで執着してきたものを手放しましょう。そのようにして自己愛の殻を破り、光の世界に枝を伸ばすとき、わたしたはきっとたくさんの実をつけることができるでしょう。
※写真の解説…六甲教会の駐車場の片隅に咲いたアーモンドの花。