バイブル・エッセイ(267)復活の確信


◆ご復活、おめでとうございます!◆
復活の確信
 あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(ローマ6:3-8)
 「復活とはどういうことでしょうか」とよく聞かれます。キリストの教えはすばらしいけれど、死人が蘇って歩き回ったというようなことだけは信じられないという方にも、よく出会います。とても難しい問いかけです。復活とは一体どういうことだったのでしょう。
 先日、東北の被災地を訪れているときに、復活とはこういうことなのかなと感じる出来事がありました。大槌町仮設住宅を訪ね、集会室で「お茶っこサロン」と呼ばれる集いに参加したときのことです。東北の言葉でお茶を飲むことを「お茶っこする」と言うのだそうですが、「お茶っこサロン」というのは、その名の通り被災者同士が、あるいは被災者とボランティアの人たちがお茶を飲みながら情報を交換したり愚痴を言い合ったり、励まし合ったりするような集いです。
 神戸から一緒に行ったご婦人の2人が、津波で被災して仮設住宅に住む2人のご高齢の婦人たちと話しはじめました。始め被災者の方々は津波がどれほど怖かったか、その後の暮らしがどれだけ心細いかというようなことを暗い表情で話しはじめたのですが、しばらくして神戸から行ったご婦人の一人が「実は、わたしも17年前、阪神淡路大震災で被災して仮設住宅に住んでいたんですよ」と話すと被災者の方々の表情が急にぱっと明るくなりました。彼女たちの口からは「仮設からはどのくらいで出られたんですか」、「住宅ローンはどうしましたか」など自分たちの将来に関わる質問が次々と飛び出し始めました。そこからさらに避難所での苦労話、仮設での出来事などへ話が展開していき、共に泣き、共に笑いしながら4人は1時間あまり話していました。最後に被災者の方の一人がこう言いました。「ありがとうございました。おかげで生きる力が湧いてきました。」
 かつて仮設住宅で生活していた人が今、目の前でこんなに元気で幸せそうに話している。仮設から出られないのではと心配し始めていたが、きっと自分たちも同じように出られるかもしれない。いや出られるに違いない。被災者の方々は、話すうちにきっとこう思われたのでしょう。今は苦しいけれども、信じて乗り切ればどんな苦しみはも必ずいつか喜びに変えられる。それこそ、復活信仰の一つの原点となる確信ではないでしょうか。
 かつてイエスは、人々から裏切られ、罵られ、津波のようにおしよせてくる人々の悪意と憎しみに翻弄されて十字架上の死へと押し流されていきました。その途中でイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とさえ叫びました。それは、「どうしてわたしがこんな目に合わなければならないのですか」、「この苦しみにどんな意味があるのですか」と問いかける叫びだったでしょう。しかし、イエスはそれでも神への信頼を失うことはありませんでした。意味がわからなくても、ひたすら信じて苦しみのときを乗り越えたのです。
 死して3日の後、イエス自身にもその意味が分からず、人々の目にも無残な敗北と見えたイエスの死に実は確かな意味があったことが分かります。その死は神の愛を地上に表し、人々の罪を贖うための死、人類を救うための死だったのです。そのとき、イエスの味わったすべての苦しみは、計り知れないほど大きな喜びに変えられました。
 日々の生活の中で、津波のように襲いかかってくる人々の悪意や差別、病苦などの力に翻弄され、絶望しそうになったとき、わたしたちの「お茶っこ」の話し相手、イエスにその苦しみを全て打ち明けましょう。同じ苦しみをかつて味わい、それを乗り越えたことがあるイエスは、一緒に涙を流しながらわたしたちの話を聞いてくれるはずです。祈りの中でイエスと共に泣き、イエスと共に喜びながらしばらく時をすごすことができれば、話し終わったとき被災地の御婦人たちと同じようにわたしたちも「ありがとうございました。おかげで生きる力が湧いてきました」と言うことができるに違いありません。
 信じて乗り切れは、どんな苦しみもいつか喜びに変えられる。イエスの十字架と復活は、そのことを確かに証しています。この確信を、復活祭の喜びの土台とし、これからの日々の生活の拠り所としていきましょう。
※写真の解説…京都、醍醐寺霊宝院の枝垂桜。