バイブル・エッセイ(268)宣教せずにいられない


宣教せずにいられない
 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4:13-20)
 議員たちの脅迫に屈することなく、ペトロとヨハネは「見たことや聞いたことを話さずにいられない」と言って福音宣教を続けました。エスとの出会いを通して与えられた喜びの知らせを、義務としてではなく、話さずにいられなくなって話す。それが福音宣教の基本なのかもしれません。
 例えば、わたしが知っているある信者さんは、長いあいだ首の痛みに悩まされていました。あまりの痛さに夜も眠れないことがあるくらいだったのですが、どういう訳か病院で検査してもお医者さんたちは何の異常もないと言うばかり。それがある日、町の施術院に入ってマッサージしてもらったところ嘘のようにその痛みが消えたというのです。しばらくの間、彼は会う人会う人に自分の痛みがどれだけひどかったか、それがどうして嘘のように治ったかということを話して周っていました。あまりにうれしくて、話さずにいられなかったのでしょう。首の痛みが消えただけでもそうなのですから、人生そのものの痛みがイエスとの出会いによって消えたなら一体どうでしょう。
 また例えば、東日本大震災のとき、間もなく大きな津波が来るという情報を得た役所の職員や警察、消防の関係者は自分たちの命の危険も顧みずに人々を高台に向って誘導し続けました。自分たちの身に大きな危険が迫っており、その危険からどうしたら逃げられるかを自分だけが知っている場合、その人はその方法を人々に知らせずにいられないのです。それは、神からその人に与えられた使命であり、人間の気高い本性だと言っていいかもしれません。津波に当てはまることは、押し寄せる誘惑や罪の大波にも当てはまるでしょう。人々が誘惑や罪の大波に呑まれそうになっているとき、自分だけがどうすれば逃れられるかを知っているなら、わたしたちは向うべき場所、「神の国」の高台を人々に向って示さずにいられないのです。
 このように、福音を伝えるということは喜びのあふれとして、また人間に与えられた義務として、使命として当然のことなのです。今まさに、わたしたちの住む社会は多くの誘惑や罪の大波に呑まれようとしています。救われた者の心に湧き上がる喜びに突き動かされ、人々を救いたいという使命に駆られて、福音宣教者としての務めを果たしてゆきましょう。
※写真の解説…京都、円山公園の枝垂桜。