バイブル・エッセイ(438)『何のために呼ばれたのか』


『何のために呼ばれたのか』
 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。(マルコ1:35-39)
 何か大きな決断をする前に、イエスは必ず一人で祈ります。この場面では、これからの宣教をどのように進めてゆくかを決めるために祈ったのでしょう。祈りから戻ってきたイエスは、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と弟子たちに告げました。祈りの中でイエスは、一ヵ所にとどまることではなく、町や村を巡り歩くことを選んだのです。
「そのためにわたしは出て来た」という言葉に注目したいと思います。苦しみや絶望の闇の中で、神の愛を待ち望んでいる人たちに福音を届けるためにナザレから出て来た。神は、そのために自分を呼び出された。イエスは、そのことを祈りの中で改めて確認したのでしょう。それが間違いのないことなら、一ヵ所にじっとしてはいることはできません。「神は、そして人々は、わたしが出かけるのを待ちわびている。神の呼びかけにこたえるため、神の愛を一人でも多くの人のもとに届けるために、出かけて行かずにいられない。」エスはきっと、そう考えたのだろうと思います。
「何のために」自分はここにいるのか、「何のために」神はわたしをここに呼んだのか、それがわかれば「何かをすべきか」が分かります。自分は何のために生まれて来たのか、何のために洗礼を受けたのか、何のために教会に集まっているのか。それさえわかれば、今わたしたちが何をすべきかはっきりするのです。そして、なすべきことをなさずにはいられなくなるのです。
 パウロが、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」と言ったのも、「何のために」自分が呼ばれたのかをよく分かっていたからだと思います。「何のために」自分が呼ばれたのかが分かれば、わたしたちは自分のすべきことをせずにいられなくなります。なぜなら、そうすることだけがわたしたちの幸せだからです。人間は、自分がすべきことをすることによってしか幸せになることができないのです。すべきことがわかっていながら、それをしないなら、わたしたちは不幸なのです。自分がすべきことをして神を喜ばせ、人々を喜ばせない限り、わたしたちは幸せになれないのです。
 では、どうしたら「何のために」がわかるのでしょうか。それは、祈りの中で神に尋ねる以外にありません。自分は何のために生まれて来たのか、何のためにいまここにいるのかを神に尋ねるのです。一ヶ所にじっととどまって、周りの人たちを幸せにする使命を与えられている人もいれば、たくさんの場所に出かけて行って、一人でも多くの人に福音を伝える使命を与えられた人もいます。それをご存じなのは神様だけなのです。
 一つだけはっきりしているのは、キリスト教徒であるわたしたちは、福音を伝えない限り幸せになれないということです。わたしたちを通して神の愛と出会った人が、心の底から喜びに満たされて笑顔を浮かべるのを見るときにこそ、わたしたちは幸せになれるのです。誰かを救うことによってのみ、わたしたちは救われると言ってもいいでしょう。「自分は何のためにここにいるのか」、祈りの中でそのことを絶えず問い直し、イエスと共に、パウロと共に、熱意に燃えた宣教者として出かけて行くことができるよう祈りましょう。
★先々週のバイブル・エッセイ『馬鹿馬鹿しいほどの愛』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。

★先週のバイブル・エッセイ『本当の権威』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。