バイブル・エッセイ(333)宣教者の条件


宣教者の条件
 エスはシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5:4-11)
 神の大いなる業を前にして自分の罪深さに気づき、足もとにひれ伏したペトロにイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と声をかけました。この場面は、自分の罪深さを謙虚に認め、神の前にひれ伏す人こそが「人間をとる漁師」、すなわち福音を宣教する者としてふさわしいとわたしたちに教えてくれます。
 その理由は3つあると思います。第一の理由は、打ち砕かれた謙遜な心だけが神の喜び、神の力、神の愛を宿し、真の福音を人々に伝えることができるということです。自分はまったく取るに足りない者であって、自分には何もする力がない。だが、もし神がこんな自分でも必要とされるならば御旨のままに使って頂きたい。心の底からそう願う人に神は聖霊を送り、その心を喜びと力、愛で満たしてくださいます。この恵みがなければ、誰も人に福音を証することなどできないでしょう。
 謙遜な心の人は、どれだけ自分が大きな成功をおさめ、人々から賞賛されたとしても決して思い上ることがありません。なぜなら、自分はまったく取るに足りない者だと知り、自分の成功はすべて神の力によるものだと気づいているからです。このような人は、成功すればするほど、称賛されればされるほど謙遜になり、よりふさわしい福音宣教の道具へと変えられていきます。
 第二の理由は、罪の闇から救い出された人だけが、まだ罪の闇の中にいてもがき苦しんでいる人々に福音を伝えるのにふさわしいということです。罪の闇の中にいる人々は、ほとんどが「自分なんかもうだめだ。どうにでもなれ」という自暴自棄な思いに囚われています。かつて自分自身もそのような闇の中に苦しんでいたときに神の光りを見、福音宣教の大いなる使命を与えられた人は、そのような闇の中にとどまっている人たちに向かって「罪の闇を知っているあなたただからこそ、救われる資格がある。そんなあなたを神は待っておられる」と確信をもって語ることができるでしょう。
 第三の理由は、罪の闇を苦しみぬいた人は、「もう二度とこの闇の中に戻るものか」という不退転の決意で福音宣教に旅立つことができるということです。どれだけたくさんの物を持っていても、人から評価されるような仕事をしていても、心が罪の闇の中にあっては何にもならないということを身をもって悟った人は、もう決して物や名誉がもたらす見せかけの喜びに惑わされることがありません。本当の幸せがどこにあるのかを知っているその人は、見せかけの喜びしかもたらさないすべてのものを捨て、決然とイエスの後について旅立つことができるでしょう。ペトロが「すべてを捨ててイエスに従う」ことができたのはそのためです。
 間もなくやって来る四旬節は、自分自身の罪深さと向かい合うためのときです。福音を宣教する者としてふさわしくなるために、神に遣わしていただくことができるために、まず自分自身の罪深さを知り、神の前にひれ伏すことから始めましょう。 
※写真の解説…奥日光、湯ノ湖にて。