バイブル・エッセイ(275)命の言葉


命の言葉
 エスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」(ヨハネ12:44-50)
 「わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」とイエスはおっしゃいます。イエスが語る言葉は、「永遠の命」に至る「父の命令」に他ならないからです。「永遠の命」に至る「命の言葉」を拒み続けることは、それ自体が裁きに他ならないということでしょう。
 たとえば、ある人が糖尿病にかかったとしましょう。お医者さんは、甘いものやお酒を控えるようにとその人に勧めますが、その人はついつい誘惑に負けてそれらに手を伸ばしてしまいます。当然ながら症状はしだいに重くなってゆき、やがてその人は失明したり足を切断したり、最悪の場合には命を失うことにさえなるでしょう。この場合の「甘いものやお酒を控えるように」というお医者さんの言葉は、まさに「命の言葉」だろうと思います。患者の健康を思う一心で語られたその言葉を真剣に受け止めず、誘惑に負け続けるなら、その人はやがて自分で自分の命を滅ぼすことになるのです。
 それと同じようなことが、イエスがわたしたちの魂について語る言葉にも当てはまると思います。たとえば、イエスはわたしたちに兄弟姉妹を赦すようにと勧めますが、わたしたちは自分のプライドに執着するあまり怒り、嫉妬、苛立ちなどの感情に引きずられがちです。その感情はやがて争いを生み、抜き差しならないほどの憎しみとなってわたしたちの心をむしばんでゆきます。ついにはわたしたちの心を押しつぶすほどになり、生きていても魂は死んしまうということにさえなりえねません。
 悔い改めよ、困っている隣人には助けの手を差し伸べなさい、思い悩んではならない、偽ってはならないなど、イエスのすべての教えについて同じことが言えると思います。誘惑に負け、それらの言葉を拒み続けるならば、わたしたちは神が望まれる本当の命を十分に生きることができないばかりか、やがては「永遠の命」さえも失ってしまうのです。賢明な患者が医師の忠告に従うように、イエス言葉を忠実に守り、本当の命を力いっぱいに生きてゆきましょう。
※写真の解説…神戸、相楽園のツツジ