やぎぃの日記(141)ことばを生み出す沈黙〜第46回世界広報の日にあたって


ことばを生み出す沈黙〜第46回世界広報の日にあたって

 明日、第46回世界広報の日を迎えるにあたって、教皇ベネディクト16世が1月に発表した「世界広報の日」メッセージを読み返してみた。メッセージのタイトルは「沈黙とことば、福音化の歩み」だ。
 特に興味深かったのは、インターネットが福音宣教に果たす役割についての考察だ。今日、インターネット上で人間存在についての究極的な問いまでもが問われ、また答えられていると教皇は指摘する。「あらゆる種類のウェブサイト、アプリケーション、ソーシャル・ネットワーク「現代人が考え、真の問いを発する時間を得るのに役立っている」というのだ。わたしのブログやtwitterfacebookのアカウントにも毎日のようにそのような問いが寄せられるから、これは確かなことだと思う。これまでは誰に聞いていいかわからなかったような問いを、わたしたちはインターネットを通して問うことができるようになったのだ。
 これはある意味で教会にとって絶好のチャンスと言ってもいいかもしれない。人生の問い、生きる意味への問いに対して、イエス・キリストが与えてくれた福音で答えることができれば、これ以上の福音宣教はないからだ。しかし、そこまで対話を深めていくのはなかなか難しい。真理についての対話が実現するためには、互いの言葉に謙虚に耳を傾けあうこと、相手のことばの奥底にあるものを見極めること、沈黙の中で自分自身と向かい合い、心の奥底にある思いに適切な言葉を与えることが必要だろう。特に最後の点について教皇は、「対話する者どうしが自分の内面を深めることを怠らなければ、深遠な思想も聖書の一節ほどの短い表現で伝えることができる」と述べている。自分が何を伝えたいのか、本当に感じていることは何なのかを沈黙のうちに見極めた人だけが、適切なことばで真理を伝達することができるというのだ。
 これはとても重い指摘だと思う。わたしがインターネット上で発することばは、そこまでの深みを持っているだろうか。いつも十分に考え、自分と向かい合って語っているだろうか。自戒すべき点は多い。意識の表層をただよう雑音のような思いや感情をことばにしても、決して真理を伝えることはできないだろう。どっしりとした心の沈黙から語られることばだけが、真理を伝える道具になりうるのだ。
 
祈りの中で心を静め、「存在の深み」へと降り立っていくとき、神はわたしたちを「みことば」としてのイエス・キリストが生まれたところへとわたしたちを導いてくださる、と教皇は言う。そのような「神の沈黙」から発せられたことばだけが、生きている福音を伝える道具になるのだろう。そのことをしっかり心に刻んで、真実のことばを生み出すどっしりした沈黙を心に持ち続けたいと思う。
★「世界広報の日」教皇メッセージの全文は、こちらからご覧になれます。⇒ http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/sc/12sc.htm
※写真の解説…草原と夏雲。日光、戦場ヶ原にて。