バイブル・エッセイ(278)友のために命を捨てる


友のために命を捨てる
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:9-13)
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさい。」この教えは、イエスのすべての教えの要約と言ってもいいでしょう。イエス・キリストが友である弟子たちや貧しい人たち、ユダヤ人、異邦人、すべての人たちを大切に思い、自分の命さえもその人たちのために差し出したのと同じように、互いに愛し合いなさいということです。でも、どうしたら誰かをそこまで愛することができるのでしょう。
 こんな話を聞いたことがあります。わたしの友人で、インドの南の方で生まれ育った、トマスという神父さんが話してくれたことです。高校生だったある日、トマスは学校に行く途中でいつものように橋を渡ろうとしていました。橋の下には、前日まで降り続いていた大雨で増水した川が、ごうごうと音をたてて流れています。「怖いなぁ。こんな流れに落ちたら大変だ」と思いながら、トマスが急いで橋を渡ろうとしたとき、とんでもないことが起こりました。何と、上流からおばあさんが流されてきたのです。きっと足をすべらせて川に落ちたのでしょう、泣きながら「助けてー」と大声で叫んでいます。
 それを見たトマスは、びっくり仰天しましたが、次の瞬間には川に飛び込んでいました。そして、おばあさんを抱きかかえながら懸命に泳ぎ、かなり流されながらもなんとか岸まで助け上げたのです。その日、トマスはびょぬれの泥だらけで遅刻して学校に行ったとのことでした。
 この話を聞いたとき、わたしは思わず「よくそんなことができたね。もしかしたら、自分が死んでしまうかもしれないじゃないか」とトマスに言いました。するとトマスは言いました。「いや、そんなこと考えてる暇なかったよ。だって目の前でおばあさんが溺れて、沈みそうになっていたんだから。」
 友のために命を投げ出すというのは、こういうことなのかもしれません。相手のことを大切に思うあまり、自分のことを考えるのを忘れてしまった人だけが、誰かのために命を差し出すことができるのでしょう。エス様もきっとそうだったに違いありません。イエス様は天国から、地上で人間たちが互いに苦しめあい、罪の中で溺れそうになっているのをご覧になりました。彼らが天に向かって「助けてー」と叫ぶ声を聞いたとき、イエス様は地上に渦巻く罪の流れの中に飛び込まれたのです。そして、もがき苦しむわたしたちに寄り添い、十字架を通して救いの岸辺へと助け上げてくださいました。
 友のために命を捨てる愛は、友を心から大切に思い、自分のことを忘れるほどに友の苦しみや悲しみを受け止めたときに生まれます。トマスがおばあさんにしたように、イエス様がわたしたちにしてくださったように、わたしたちも自分のことを忘れるほどに誰かを愛せたらいいですね。
★このエッセイは、5月13日の「子どもと共に捧げるミサ」での説教に基づいています。
※写真の解説…カルカッタ、パーク・ストリートにて。