バイブル・エッセイ(281)真実のことば


真実のことば
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:1-11)
 聖霊の降臨によって言葉の壁が崩され、弟子たちがあらゆることばで「神の偉大な業」を語り始める。この場面は、創世記にあるバベルの塔の物語のちょうど逆だと思います。
 旧約の時代、地上に数を増やし、富を蓄えて力をつけた人々は、自分たちの力を誇示するために天にまで届く高い塔を建てようとしました。ですが、神をないがしろにして自らの力を誇る傲慢さを見て神は悲しみ、塔を破壊してしまいました。そればかりか、神は言葉に乱れをもたらし、人々が結束して傲慢になることがないようにされたのです。
 それに対してこの場面では、地上の富も栄光もすべてを失った弟子たちが、自分たちをどこまでも低くして神に祈っています。神は彼らの謙遜さ、神への全面的な信頼を喜び、聖霊を送って彼らに力を与えられます。そればかりか、彼らがその健全な信仰を地の果てにまで伝えることができるようにと、言葉の壁を崩されたのです。
 わたしたちはこの物語から何を学ぶことができるでしょうか。謙遜に祈っていれば、聖霊が下り、突然に英語やドイツ語を話せるようになるということでしょうか。そうではないと思います。この物語がわたしたちに教えているのは、神の霊に満たされた謙遜な人には、言葉の壁を軽々と越えて神の愛を人々に伝える「真実のことば」が与えられるということでしょう。
 たとえば、自らを低くして神にすべてを委ねた人が聖霊に満たされて「主は、わたしたちと共におられます」と語るとき、その人からあふれ出す喜びや落ち着き、平和は、百万の言葉にも増して相手の心に強く訴えかける力を持っています。神学や聖書学に裏打ちされた長い説教をする必要はないのです。聖霊に満たされた心からあふれ出した言葉は、たとえ短く、つたない表現であったとしても、どんな説教にもまさる強い説得力をもって相手の心に神の愛を伝えていきます。
 聖霊が与える「真実のことば」は、言語のみによって伝えられるものでもありません。ほんの小さな心遣いや、ほほ笑みだけでもいいのです。聖霊に突き動かされてした行いや、顔に浮かんだ笑みからあふれ出すぬくもりは、どんな言葉よりも力強く相手の心を揺さぶる力を持っています。大金をかけたり時間を費やしたりして、大きな業をする必要はないのです。聖霊に満たされて心からあふれ出した行いや笑顔は、たとえ小さく、ささいなことであったとしても、どんな大きな業よりも力強く相手の心に神の愛を伝えていきます。
 それこそが、言葉の壁を軽々と乗り越える言葉、聖霊がわたしたちに与えてくださる言葉でしょう。神の前に遜り、自分を低くして神にすべてを委ねるとき、わたしたちの心を聖霊が満たします。その心からあふれ出す言葉や行いこそ、聖霊のもたらす喜びや落ち着き、平和の最も直接的な表現であり、言葉の壁を越えて神の愛を伝える力を持った「真実のことば」なのです。わたしたちの心にも聖霊が下るように、聖霊に満たされた心からあふれ出す「真実のことば」によって地の果てまでも神の愛を伝えることができるようにと祈りましょう。
※写真の解説…奥日光、華厳の滝