バイブル・エッセイ(290)タリタ・クム


タリタ・クム
 会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。(マルコ5:35-42)
 息を引き取った少女の周りに集まった人々は、ただ悲しみの涙にくれるばかりでした。しかし、イエスは少女の傍らに立ち、その手を握って「起きなさい」と声をかけます。すると少女は再び命を取り戻し、立ち上がって歩き出したのです。この場面を読みながら、先日、虐待と性暴力についての研修会で聞いた話を思い出しました。
 虐待の被害についての説明の中で、御自身も虐待を受けた経験のある講師の方は、ひどい虐待を受けるとその人の心の中にある「生きる力の泉」が破壊されてしまうとおっしゃっていました。人間の心の奥底には「生きる力」が湧いてくる泉があって、普通の人は何気なく毎日そこから「生きる力」をくみ上げて生活しているのだけれど、ひどい虐待を受けるとその泉が壊れてしまうというのです。体は生きていても心には生きる力がまったく湧いてこない、まるで死んだようになってしまうということでしょう。
 しかし、その泉がふとしたきっかけで再び湧き出すことがあるともおっしゃっていました。たとえば、こんなケースがあったそうです。虐待を受け、自分がすっかり汚れたと思って心を固く閉ざしていた子どもがいました。その子があるとき学校の授業で絵を描いたそうです。たまたまその絵を目にとめた先生が、その絵を見ながらつぶやきました。「こんなにすばらしい絵を描く子は、きっと心がきれいなんでしょう。」その一言をきっかけとして、その子は再び生きる力を取り戻したとのことでした。
 その子の周りには、きっと他にもたくさんの大人たちがいたことでしょう。しかし、彼女に起こった悲劇を悲しむ人はいても、彼女に向かって「あなたは美しい。あなたに生きてほしい。だから、起きなさい」と声をかける人は誰もいなかったのかもしれません。彼女は、死のような闇の中で誰かかがその一言をかけてくれるのを待ち望んでいたのです。
 虐待を受けた方たちに限らず、わたしたちの身の周りにはさまざまな理由から「自分は汚れた」、「生きる価値がない」と思い込んで、絶望の闇の中に沈んでいる人がいるかもしれません。その人を取り囲んで、その人に起こった悲劇を悲しんで泣くだけではだめだと思います。むしろ、その人の傍らに立ち、その手をとって「あなたは美しい。あなたに生きてほしい。だから、起きなさい」というメッセージを発してゆくべきでしょう。どんな同情や慰めよりも、必要とされているのはそのメッセージなのです。
 わたしたちは、どんなことが起きようとも一人ひとりが「神の似姿」であり、誰もが「神の子」だと確信していますから、それをまっすぐに伝えればいいのです。それこそ教会に与えられた使命であり、福音宣教の確かな形ではないでしょうか。 
★エッセイには入れませんでしたが、説教の中では、公共広告機構のポスターから次の言葉も引用しました。
「『命は大切だ』、『命を大切に』、そんなこと、何千何万回言われるより、「あなたが大切だ」誰かがそう言ってくれたらそれだけで生きてゆける。」
※写真の解説…北海道、美瑛町にて。