バイブル・エッセイ(437)『本当の権威』


『本当の権威』
 エスは、安息日に(カファルナウムの) 会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(マルコ1:21-28)
 イエスが毅然たる態度で悪霊を追い払うのを見た人々は、「権威ある新しい教えだ」と言って驚きました。律法学者たちとは明らかに違う、イエスの権威とはいったい何だったのでしょう。なぜ、悪霊はイエスの言葉に従って出て行ったのでしょう。
 律法学者たちとイエスの最大の違いは、真理を振りかざしていたか、それとも真理を生きていたかだと思います。律法学者たちは、真理の言葉を振りかざして人を裁きますが、それは自分自身のためです。神のためでなく、自分の名誉や利益を守るために真理を利用しているのです。悪霊にとって、そのような人を屈服させるのは簡単です。利害損得で説得すればいいからです。「まあ、そんなこと言っても、こうした方があなたの得になりますよ。ちょっとくらいならばれないから、やってしまいなさい」と誘惑すれば、簡単に悪の道に誘うことができるのです。
 しかし、真理を生きている人はそのようにはいきません。真理を生きる人の心にあるのは、苦しんでいる人々、助けを求めている人々を救いたいという神の愛だけだからです。人々への愛、神への愛だけがその人を動かしているからです。その人の心には利害損得の計算が一切ありませんから、悪霊のつけ入る隙もまったくありません。真理を生きている人の前では、悪霊はただ屈服する以外にないのです。
 わたしたちも、イエスに倣って真理を生きること、愛を生きることによって悪霊を追い払いたいと思います。たとえば、日々の仕事の中で、悪霊は「こんなことをしても、お前の得にはならないぞ。ちょっとくらい手を抜いたってばれない」と囁き、わたしたちを邪魔しようとするかもしれません。利害損得で働いていれば、「まあ、それもそうかな」と思って誘惑に乗ってしまう可能性があります。しかし、愛のために働いている人は誘惑されることがありません。自分を待っていてくれる人のために、どんなことがあっても全力を尽くそうとするからです。神から自分に与えられた、愛の使命を果たそうとするからです。そのような人には、悪霊がつけ入る隙がありません。
 真理を生きる人の力は、悪霊を追い払うだけではありません。愛によって語る人の言葉には、すべての人の心を揺さぶり、心の中に眠っている愛を呼び覚ます力があります。その言葉を聞いた人たちは、自分にとって一番大切なことを思い出させてくれた人に喜んで従いたいと思うでしょう。
それだけではありません。私利私欲によって語る人の顔には曇りや歪みがありますが、純粋な愛によって語る人の顔にはすがすがしい輝きだけが宿っています。それは、人々を惹きつけずにはいない輝きです。存在そのものによって人々を従わせ、惹きつける力、それが愛に生きる人の権威であり、イエスの権威なのです。
 自分を守るために権威を振りかざす人の言葉には、まったく権威がありません。自分を捨てて愛に生きるときにだけ、わたしたちは権威ある者になるのです。イエスの弟子としてふさわしい権威を持つことができるよう、その恵みを願いましょう。