バイブル・エッセイ(289)罪をあばく


罪をあばく
 預言者はあなたに託宣を与えたがむなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには一度、罪をあばくべきなのにむなしく、迷わすことをあなたに向かって告げるばかりであった。おとめシオンの城壁よ主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ。立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよあなたの幼子らのために。彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。(哀歌2:14、18-19)
 「あなたを立ち直らせるには一度、罪をあばくべきなのに」という言葉が、いつになく心に響きました。ちょうど先日、欧米で頻発した司祭・修道者による児童への性的虐待事件をきっかけとして呼びかけられた、虐待と性暴力について考える研修会に参加したばかりだからでしょう。
 講師の方の話しを聞き、共に考える中で浮かび上がってきた言葉の一つは「教会の隠ぺい体質」でした。そもそも、いま欧米の各国で問題になっている事件のほとんどは、数十年も前に起こった出来事です。それがいま表に出てきたのは、教会が隠していたそれらの犯罪が、幾つかの事件をきっかけとして一挙に明るみに出たということなのです。
 隠したのは、まず教会の責任者たちだったようです。司祭や修道者が卑劣な虐待事件を起こしたことを知りながら、教会の評判が落ちることを恐れて罪をあばくことなく、別の任地に移動させることで事件をうやむやにしてしまったのです。隠したのはまた信徒でもありました。大切な司祭や修道者を守りたいという思いのあまり、現実を直視することを避けたのです。被害者が訴えても、逆に「それはあなたが悪い」、あるいは「ゆるすべきだ」と説諭されてしまうようなケースさえあったようです。「あってほしくない」という思いが「なかった」という虚構を作り上げ、事実を隠したのかもしれません。
 日本の教会にはそのような体質がないと、はっきり言い切れるでしょうか。わたしたち一人ひとりに「隠ぺい体質」がないと、はっきり言い切れるでしょうか。もし言い切れないとすれば、欧米で発生した事件は決して「対岸の火事」ではないでしょう。わたしたち自身の問題として考える必要があると思います。
 個々の事件によって違いはあると思いますが、罪を犯した人々を立ち直らせるために、罪を犯した教会を立ち直らせるために本当に必要だったのは、「むなしい偽りの言葉」ではなく、「罪をあばく」ことだったのかもしれません。悔い改めの涙の中で神に向かって叫び、歯をくいしばって立ち上がることこそが神の望みだったのかもしれないのです。
 神に立ち返る悔い改めは、自分が罪人であるという事実を認めることから始まります。罪や弱さと向かい合う勇気、教会の本当の姿、わたしたち自身の本当の姿を受け入れる勇気を、心から神に願いたいと思います。
※写真の解説…六甲山、生田川上流にて。