バイブル・エッセイ(291)弱いときにこそ強い


弱いときにこそ強い
★このエッセイは、子どもと共に捧げるミサの中での説教に基づいています。
 皆さん、わたしが思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(二コリント12:7-10)
 「わたしは弱いときにこそ強い」とパウロは言います。弱いのに強いなんて、まるでなぞなぞのようですね。パウロは一体何を言っているのでしょう。
 小学校の3年生のときに、仲良しの友だちと喧嘩をしてしまったことがあります。いつも学校に一緒に行ったり、マンガを交換して読んだり、近くの川に魚釣りに行ったり、本当に仲がいい友だちだったのですが、今ではもう覚えていないような小さなことから口論になり、つかみ合いの喧嘩になってしまったのです。お互いに「もう絶交だ」という所まで行ってしまいました。
 その晩、家でお父さんにそのことを話すと、まったく思いがけないことを言われました。「明日の朝、お前から先に謝れ」というのです。わたしは「でも、あいつの方が悪いのに」と文句を言いましたが、お父さんは「それでも、お前が先に謝れ。男だろう」というのです。わたしは不承不承でしたが言うことを聞いて、翌朝、友だちに謝りました。すると友だちの方も謝ってくれて、また元通りの仲良しになることができたのです。
 あのときは、自分から謝るなんて負けたみたいで嫌だなと思いましたが、今から考えてみれば父の言ったことは正しかったのだと思います。自分から負けることによって、友だちを失わずにすんだからです。もし喧嘩を続けていれば、クラスの仲間にもきっと迷惑をかけたことでしょう。
 本当の強さとは一体なんでしょう。それは、誰かに勝つことよりも、むしろ自分自身に勝つことではないかと思います。自分自身に打ち勝つことで、仲間や隣人とのあいだに平和を実現できる人、そんな人こそが本当に強いのだと父はわたしに教えたかったのでしょう。
 このような強さの一番の模範が、イエス・キリストであることは言うまでもありません。イエスは十字架上でみじめな姿をさらしていますが、もし喧嘩しようと思えばできたのです。天の軍勢を呼んで、ローマ軍を打ち破ることだってできたはずなのです。ですが、エスはあえて弱くなることを選びました。弱くなることで、自分の敵さえも滅ぼすことなく、全人類を救ったのです。
 相手を負かしたいという自分の思いに打ち勝つとき、あえて弱くなるとき、わたしたちを通して神の力が働き、この世界に平和が実現します。そのようにして平和を実現する人こそが、一番強い人なのです。そのような強さを持てるよう、神に願いましょう。
※写真の解説…三千院の庭で見ごろを迎えた半夏生