バイブル・エッセイ(304)尊厳という名の服


尊厳という名の服
エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ7:31-37)
 「わたしたちの使命は、貧しい人々が人間としての尊厳、『神の子』としての尊厳を取り戻すのを手伝うことです。」マザー・テレサは言っていました。汚れきった、ぼろぼろの服を着たて道端に横たわっている人々は、着る服がないだけでなく、人間としての尊厳まではぎ取られてしまっている。彼らがもう一度立ち上がるためには、病気や飢えを癒すだけでは足りない。「神の子」の尊厳を取り戻し、自分に自信を持つことが不可欠だ。マザーは、そう考えていたのです。
 それゆえマザーは、運ばれてきた人々の一人ひとりを「神の子」として、イエス・キリスト御自身として大切に扱うようにとシスターたちに指示しました。彼らを尊厳のある者として大切に扱うことだけが、彼らに自分の尊厳を思い起こさせる唯一の方法だからです。一人ひとりの苦しみに寄り添い、できる限りの介護をすることで、マザーは貧しい人々の心に尊厳という服を着せかけていったのです。
 今日のイエスの振る舞いの中にも、同じような配慮が感じられます。人々は、イエスに「手を置いて」癒すように頼んだのですが、イエスが実際にしたのは、耳と口が不自由な人を「群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れる」こと、そして「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言う」ことでした。おそらく、イエスのもとに連れられてきた人は、耳が聞こえず、うまく話すことができないゆえに人々から欺かれたり、蔑まれたりして人間としての尊厳を失いかけていたのでしょう。そのことを見てとったイエスは、耳を開き、口のもつれを解くだけでは不十分と考え、このように振る舞ったのだと思います。耳を開き、口のもつれを解くだけなら、手を置くことによってもできたはずです。ですが、この人に尊厳という名の服を着せるために、あえてイエスはここまでしました。
 汚れた、ぼろぼろの服を着た人が、もし教会に来たらどうするでしょう。わたしたちにできることは本当に限られています。ですが、十分な施しができなかったとしても、その人を心から「神の子」と思い、大切に、丁寧に対応することで、わたしたちはその人の心に尊厳という名の服を着せてあげることができるでしょう。真心をこめた一言が、その人を一冬、孤独と絶望から守る服になることさえありえます。エスに倣い、マザーに倣って、わたしたも人々に尊厳という名の服を着せかける人になることができますように。
※写真の解説…カルカッタ、「死を待つ人の家」にて。老女に服を着せかけるマザー。