バイブル・エッセイ(303)心の森


心の森
人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。(一コリ4:1-5)
 「あなたに何を言われても、何でもない。わたしは絶対に正しいんだから。」自分を正当化するために、そんな風に言ってしまうことがあります。自分は少しも間違っておらず、相手など取るに足りないという傲慢な態度です。
 「あなたがたから裁かれようと、少しも問題ではありません」と言うのパウロの言葉は、ちょっと聞くとこのような態度にも似ています。ですが、パウロの次の言葉が、そのような疑いを打ち消します。「自分で自分を裁くことすらしません。わたしを裁くの主なのです」とパウロは言うのです。パウロの言葉は、自分の正しさを主張するためではなく、心の闇さえも見通す全知全能の神だけが正しく人間を裁くことができる、と主張するための言葉だったのです。
 実際、わたしたちは自分自身のことについてさえ、それほど多くのことを知りません。他の人はわたしたちを外から見て判断しますが、わたしたちも自分が意識し、気づいている自分だけを見て自分を判断しているのです。心の底知れない深さを考えたとき、その両者に大した違いはないと言っていいでしょう。他人が自分のことを知らないのと同じくらい、わたしたちは自分自身のことを知らないのです。
 心は、深い森に譬えられることがあります。心の深みには、わたしたちがかつて閉じ込めた感情や、昔受けた傷、さらには人類の歴史の中で心に刻まれてきた本能というようなものが隠れています。心の森に分け入るとき、わたしたちは、自分の心の中に美しい花が咲いていることに気づいたり、逆に恐ろしいけだものが隠れていることに気づいたりします。深い祈りの中で、わたしたちはその森に分け入り、自分の美しさを見つけては神に感謝し、醜さを見つけては神に助けを願いながら、時折現れる聖霊の光だけを頼りにして前に進んでいます。ですから、祈れば祈るほど、わたしたちは自分が自分をどれほど知らないかを悟り、ありのままのわたしを受け入れてくださる神の前で謙虚にならざるをえないのです。
 自分についてさほとんど何も知らないわたしたちが、自分を裁いたり、ましてや誰かを裁いたりするというのは、本当に無謀で、滑稽なことに思えます。わたしたちは、ただ謙虚な心でありのままの自分を神に差し出し、神の裁きを待ちましょう。
※写真の解説…早朝の森。長野県軽井沢町にて。