バイブル・エッセイ(320)無原罪の心


無原罪の心
 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-38)
 今日は、聖母マリアが原罪を持たずに母の胎に宿ったことを祝う「無原罪の御宿り」の祭日。イエスの母マリアが、生まれたときから死ぬときまで、罪の汚れを知らない心を持って生きられたことを喜び、わたしたちもそのような心で生きたいと願う日です。ですが、原罪を持たない心、罪の汚れを知らない心とは一体どのようなものなのでしょう。それを知るためには、まず原罪が何であるかを振り返ってみる必要があると思います。
 原罪がどのようにして人間の心に入り込んだか、その様子は創世記の初めに描かれています。最初の人間であるアダムとエバは、悪魔である蛇にそそのかされて、神から食べることを禁じられた木の実を食べてしまいます。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と言って蛇はエバを誘惑しました。神の代わりに自分が善悪を知り、善悪を判断する者になりたいという傲慢を、エバの心に掻き立てたのです。禁じられた実を食べたアダムは、そのことを神に咎められたとき「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と口答えしました。「あなたが与えた女がそそのかしたのだから、悪いのはわたしではない。女をわたしに与えたあなただ」と言わんばかりの口ぶりです。傲慢に陥った人間は、自分の落ち度を決して認めず、自分を絶対に正しい者として神にさえはむかう者となったのです。神の言葉に耳を傾けず、神に代わって自分が善悪を判断し、自分の判断を絶対的に正しいものと信じ込む、それが原罪に染まった心の状態だと言っていいでしょう。好むと好まざるとにかかわらず、人間はそのような傲慢を心のどこかに持って生まれてくる、それが原罪の教えなのです。
 では、原罪を持たない心、無原罪の心とはどのようなものなのでしょう。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」というマリアの言葉が、わたしたちに無原罪とは何かを教えてくれるように思います。まずマリアは、自分を「主のはしため」にすぎないと言います。「自分には善悪を判断する力がありません。神の判断にすべてを委ねます」という心が、そこに表れています。「お言葉通りに、この身になりますように」という言葉の中には、神を信頼し、自分の心も体も、命さえもすべてを喜んで委ねる心が表れています。神の言葉に耳を傾けず、神に代わって自分が善悪を判断し、自分の判断を絶対的に正しいものと信じこむ、原罪に染まった心と正反対の心がここにあると言っていいでしょう。
 無原罪の聖母マリアは、原罪から解放された心とは、あらゆる傲慢や思い込み、偏見から解放された自由な心、あらゆることにおいて神をより頼み、神に全てを委ねて生きる謙遜な心、すべてを手放し、すがすがしい喜びに満たされた心であることをわたしたちに教えてくれます。難しいのは承知の上ですが、わたしは、そのような心で生きる人になりたいと願わずにいられません。聖母と共に、日々、心の底から「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と祈り続けたいと思います。
※写真の解説…六甲教会の庭の片隅に積もった落ち葉。