バイブル・エッセイ(236)心に納める


心に納める
 そのとき、羊飼いたちは、急いで行ってマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)
 聖母マリアは、羊飼いたちに起こった出来事をすべて心に納め、思い巡らしました。ナザレで天使から受胎の告知を受けたあと、10か月ぶりに天使たちが現れて神のメッセージを伝えたというのですから、これはある意味で当然のことかもしれません。
 例えば、恋に落ちた若者にしばらく音信不通だった彼女から手紙が届いたとしたらどうでしょう。彼は、その手紙の言葉を隅々まで覚え、それだけではなくどんな紙にどんな筆跡で書かれていたか、どんな切手が貼られていたか、どこからいつ投函されたかなど、その手紙に込められたすべてのメッセージを心に納め、その意味を思いめぐらすことでしょう。最愛の人からの手紙なら、それは当然のことです。マリアにとって、羊飼いたちを通して届けられた天使からのメッセージはそれ以上のものだったでしょうから、マリアの行動は当然のことなのです。マリアは羊飼いたちの言葉だけでなく、表情や身振り、服装に至るまで心に納め、その中に込められた神のメッセージを探したに違いありません。
 わたしたちの元にも、神からのメッセージが届けられることがあります。天使が現れて語るというようなことはまずありませんが、誰かの口を通して、出来事を通して神はわたしたちにメッセージを届けようとしておられるのです。例えば、ミサで読まれる聖書の言葉、友人の笑顔や手の温もり、思いがけない出会いや別れなどを通して、神はわたしたちに語りかけようとしています。それだけではありません。花壇に咲いた小さな水仙の花や、陽だまりで感じる太陽の温もりなど自然界の出来事も神からのメッセージかもしれません。もしわたしたちに神の思いを見通す目があるならば、この世界に起こるすべての出来事は神からわたしたちへのメッセージ、愛の語りかけであることに気づくでしょう。意味が分からないような出来事であったとしても、それをありのままに受け止めて思いめぐらすなら、やがて隠されたメッセージに気づくかもしれません。理不尽な苦しみや試練と思えることさえ、神からの愛のメッセージでありうるのです。
 一つひとつの出来事を最愛の人からの手紙であるかのように、神からのメッセージとして丁寧に受け止め、心に納めていきたいものです。そのようにして読み取った愛のメッセージを人々に伝えていくことこそ、本当の福音宣教でしょう。  
※写真の解説…富士を背に、厳寒の湖で泳ぐ白鳥たち。