バイブル・エッセイ(322)心にイエスがいるなら


心にイエスがいるなら
 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:4-7)
 「主はすぐ近くにおられます」、だから「喜びなさい」とパウロはわたしたちに語りかけています。「主はすぐ近くにおられる」、それは明らかな事実でしょう。なぜなら、主はわたしたち一人ひとりの心の中におられるからです。
 ですが、わたしたちはそのことを本当に信じているでしょうか。そのことを実感しながら日々の生活を生きているでしょうか。例えば、何か困難なことに直面したとき、わたしたちは「どうしたらこの問題を解決できるだろうか」と悩み、一人で考え込んでいないでしょうか。大きな失敗をしたとき「困ったなあ、どうやって乗り越えようか」と心の中で自問自答していないでしょうか。
 もしわたしたちの心の中にイエスがおられるなら、それはとても不自然なことです。自分で悩み、考え、自問自答するというのは、心の中におられるイエスを無視して、独りごとを言っているようなものだからです。もしわたしたちの心の中にイエスが住んでおられるなら、それを信じているなら、大きな困難や失敗に直面したとき、誰よりも先に心の中にいるイエスに相談するべきでしょう。ああでもない、こうでもないと自分で考えるのをやめ、「主よ、どうしたらこの問題を解決できるでしょうか」、「どうしたらあやまちを償えるでしょうか」とイエスに語りかけるべきなのです。そうすれば、イエスは必ずわたしたちに一番いい答えを示してくださるに違いありません。それが、心の中にイエスがおられるということであり、そこからイエスと共にいる喜びが生まれてくるのです。
 イエスがわたしたち一人ひとりの心の中におられると信じるということは、わたしたちの心の中だけでなく、わたしたちの家族、友達、同僚の心の中にもイエスがおられると信じるということでもあります。たとえば誰かと大喧嘩をしたとき、わたしたちは相手を無視したりしていないでしょうか。もし相手を無視するならば、相手の心の中にいるイエスを無視しているのと同じです。わたしたち一人ひとりの心にイエスがおられると信じているなら、その相手には絶対に話しかけることができなくても、相手の中にいるイエスに話しかけるべきでしょう。「主はすぐ近くにおられる」と固く信じ、相手の心の中にいるイエスに向かって「昨日はすみませんでした」、「どうぞゆるしてください」と語りかけることができれば、きっとわたしたちの心に大きな喜びが訪れるはずです。
 わたしの心の中にイエスがおられる、家族、同僚、友だちの心の中にイエスがおられる、そのことさえ忘れなければ、わたしたちはどんなときでも喜ぶことができます。「主はすぐ近くにおられる」、わたしたち一人ひとりの心の中におられる。そのことをしっかりと信じ、信じたとおりに生きてゆきたいと思います。
※写真の解説…ポインセチア布引ハーブ園にて。