バイブル・エッセイ(328)救いに至る道


救いに至る道
 エスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)
 救い主の誕生を示す星が東の空に輝くのを見つけた占星術師たちは、救い主を拝みたい一心で行く先の分からない旅に出ました。その道のりは何百キロにも及び、途中には渇ききった広大な砂漠や大河、険しい山、紛争地域や飢饉や疫病に見舞われた村々など、幾多の困難が待ち受けていたに違いありません。しかし、彼らはあらゆる困難を乗り越えてベツレヘムに到着することができました。それは、夜空に輝く星の下に必ず救い主がおられると信じて疑わなかったからだろうと思います。
 灼熱の太陽が照りつける渇ききった砂漠で、どこにたどりつくかも分からない旅路をさまよいながらも、彼らは決して希望を失うことがありませんでした。それは、今はどんなに苦しくても、夜空に輝く星に向かって歩き続ければ必ず救い主に会うことができると確信していたからです。険しい山道で、断崖絶壁を這い登るときでも、彼らは決して恐れませんでした。それは、この一歩一歩が確かに救い主にたどり着くための一歩だと確信していたからです。どれほど困難でも、どれほど危険でも、もしその一歩が確実に救い主のもとへと続く一歩だと信じていれば、人間は喜んでその一歩を踏み出すことができるのです。救い主との出会いを信じて歩むその旅路そのものが、すでに救いの始まりだとさえ言っていいかもしれません。真理へと向かう確かな道の途上にある人は、すでに真理の中におり、幸福へと向かう確かな道の途上にある人は、すでに幸福の中にいるのです。
 この博士たちの旅路は、わたしたちの人生の旅路とも重なるものです。大きな困難に直面し、どちらに進んでいいかも分からなくなったときには、地上のことばかり見るのをやめて、祈りの中で目を天に向けましょう。父なる神が、必ず真理の光を灯してわたしたちを導いてくださるはずです。大きな危険に直面し、もう恐ろしくて先に進めないと思ったときには、地上のことばかり考えるのをやめ、祈りの中で心の深みに目を向けましょう。父なる神が、必ず真理の光をともしてわたしたちを導いてくださるはずです。その光りを見つけ出し、その光りのもとに必ず救いが待っていると信じて疑がわなければ、わたしたちはどんな困難な道も、危険な道も、喜んで力強く進んでいくことができるでしょう。
 何よりも大切なのは、闇の中に輝く星を見失わないこと、その星のもとに必ず救いが待っていると信じて疑わないことです。一日一日の歩みが必ず救い主へと続く道だと信じ、喜んで力強くこの道を歩き続けましょう。
※写真の解説…摩耶山、青谷道にて。