バイブル・エッセイ(785)真実の光


真実の光
エスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)
「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とマタイは語っています。異邦人を照らす光が現れ、人々はそれに向かって集まって来るというイザヤ書の預言が、文字通りに実現したのです。現代の世界で、遠くの空に突然まばゆく輝く星が現れて人を導くことはないかもしれませんが、誰かの人生の中に福音の光が輝き、人々をイエスのもとに導くということはあると思います。
 20世紀の世界に福音の光を輝かせた人の一人が、マザー・テレサだったことは間違いがないでしょう。わたし自身もそうでしたが、キリスト教をまったく知らない人たち、他の宗教に属する人たちがマザーに引き寄せられ、マザーのもとでキリストと出会いました。スラム街の貧しい人たちと同じ生活をし、貧しい人々のためだけに生涯を捧げるマザーの生き方の中に、人々は福音の光を見たのです。その光は、愛の光、真実の光だと言っていいでしょう。人間の心は、奥深いところで常に愛の光、真実の光を求めています。苦しんでいる人々のために惜しみなく自分を捧げる真実の愛に憧れ、その光に触れたいと願っているのです。できることなら、自分自身もそのような愛の中に生きたい。光の中を歩みたいと願っているのです。誰かの生き方の中に愛の光、真実の光を見つけ出すとき、わたしたちの心はその光に引き寄せられます。人間の心は、そのようにできているのです。
 愛の光、真実の光を輝かせ、人々をキリストのもとに招く使命は、わたしたちにも与えられています。「そんなことはマザー・テレサだからできたことで、わたしたちにはできない」とつい考えてしまいがちですが、そんなことはありません。なぜなら、マザーが輝かせていた光は、自分自身の光ではなく、神から射した光だったからです。神からあふれ出す愛の光がマザーを満たし、マザーの生涯を輝かせたのです。すべては神から出たこと。マザーは、ただ神の愛に自分のすべてを明け渡し、神の愛に満たされて生きただけなのです。
 それは、わたしたちにも出来ることでしょう。愛に満たされた人生、真実なものに貫かれた人生を生きようと試みる限り、わたしたちの人生は光を放つのです。例えば、サビエル高校で教えるためにはるかアフリカやインドからやって来たシスターたち。彼女たちの顔は、いつも喜びの光、静かな愛の光に満たされています。その光は、子どもたちの心を引き付けるに違いありません。あるいは例えば、忙しい毎日の中で、地域での奉仕活動に従事しておられる信徒の方々。彼らの顔は、いつも喜びの光、静かな愛の光に輝いています。その光は、キリスト教徒まったく関係のない人たちでさえ、引き付けずにいない光です。
 私利私欲を捨て、ただ愛の命じるままに生きようとするとき、わたしたちの人生は光を放ちます。たとえ小さな光でもかまいません。暗闇の中で生きている人たちにとっては、ほんの小さな光でさえ貴重なのです。神様の愛を心にしっかり受け止め、自分に与えられた場所で小さな光を輝かすことができるよう祈りましょう。